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日本史

Contents:
  1. 平安末期
    1. 白河法皇前後の主要な系図
    2. 前九年の合戦
    3. 後三年の合戦
    4. 院政と武士の台頭
    5. 平正盛により源義親の討伐
    6. 白河法皇以後(保元の乱、平治の乱)
    7. 系図
    8. 保元の乱(1156)
    9. 平治の乱(1160)
    10. 鹿ヶ谷の陰謀(1177)
    11. 治承三年の政変(1179)
  2. 源氏の蜂起

鎌倉に引っ越してきたので、鎌倉時代の歴史でも学ぼう、と思っている。

以前セールでやすかった以下のコミックスをまとめるところから始めて、他の本で読んだ内容などを足していくかも。

平安末期

どうも平清盛あたりから読むと知らない登場人物がいろいろ出てきてしまうので、 もう少し前から流れを追いたくなる。

白河法皇前後の主要な系図

源氏

  1. 頼義
  2. 義家
  3. 義親

平氏

  1. 平正盛(義家が院の昇殿を認められた時期)
  2. 平忠盛

天皇家(主要な登場人物だけ)

  1. 白河天皇
  2. 堀河天皇(讃岐典侍日記)
  3. 鳥羽天皇

前九年の合戦

蝦夷の人々から選ばれた代表である安倍氏が朝廷と対立し、 源頼義、源義家の親子が派遣される。

苦戦するが、出羽国の清原武則の助力を得て勝利する。

この時に負けた安倍氏側の藤原経清の子供が藤原清衡で、この時に処刑を免れて後に奥州藤原氏として権勢を誇る。

この時に勝利した頼義は、けれど陸奥国を手に入れる事は出来ず、助力を仰いだ清原武則が鎮守府将軍となってしまう。

後三年の合戦

前九年から20年後、白河天皇(後に院政を始める白河上皇)の時代に、清原氏の三兄弟のうちの二人がもめごとを起こしていた所に、 源義家を陸奥国の国司に任命されて、任される。

この三兄弟の一人が藤原清衡(この時は清原清衡を名乗っている)。もう一人を家衡と言う。

義家はこの揉め事の仲裁に入り裁定を行ったが、清原家衡が不満に思い、清衡の館を襲撃して妻子を殺害、 義家と清衡は反撃に出るも敗勢で撤退、翌年義家の弟、義光が参戦してなんとか勝利を収める。 これが後三年合戦。

後三年合戦のあと、朝廷は義家を陸奥守から解任し、さらに戦費も払わないと言い始める。 この時に義家がポケットマネーで部下に報酬を払う事で結束を強めた。

勢力を増した事で白河上皇は取り込む事にし、義家は正四位の下となって武士で初めて院の昇殿と許される。

院政と武士の台頭

白河上皇は藤原家などの貴族たちの力を荘園整理などで弱めて、武士などを取り立てた。 その結果武士が力をましていった。

僧兵の強訴に対抗するために警備を任せたのが平正盛、平忠盛親子。

平正盛により源義親の討伐

義家の子供の義親は対馬守(長崎)で横暴な振る舞いをし、 捉えに来た朝廷の使者を殺してしまうなどして、隠岐国に流される。 だが隠岐を出て出雲の国で暴れまわるようになり、平正盛に討伐例が出され、討伐に成功する。

この後義家の系譜は義忠が暗殺されて途絶える。

白河法皇以後(保元の乱、平治の乱)

鳥羽天皇が鳥羽上皇として院政を開始。鳥羽天皇の後に天皇になった崇徳天皇は、譲位して上皇になっても権力を握れず。

伊勢平氏は忠盛の時代へ。鳥羽上皇と親密。内昇殿を許される。

系図

源家

  1. 源為義(白河法皇に検非違使を任される)
  2. 源義朝

天皇

  1. 鳥羽天皇
  2. 崇徳天皇
  3. 近衛天皇
  4. 後白河天皇
  5. 二条天皇

平氏

  1. 平忠盛
  2. 平清盛
  3. 平重盛

奥州藤原氏

  1. 藤原清衡
  2. 藤原基衡
  3. 藤原秀衡

保元の乱(1156)

崇徳上皇と後白河天皇の陣営に分かれて争った。

崇徳上皇側

  • 藤原頼長(弟側、頭が良く理想家だが過激で近衛天皇にも嫌われるように)
  • 源為義(その子、為朝も)
  • 平忠正

後白河天皇側

  • 藤原忠通
  • 源義朝(為義の長男、為朝の兄、頼朝の父)
  • 平清盛

近衛天皇が若くして崩御、跡継ぎが順番的には崇徳上皇の子供になるはずが、崇徳上皇の弟(雅仁親王あらため後白河天皇)に。 後白河天皇は頼長を嫌う。

その折、鳥羽法皇が崩御し、崇徳上皇が兵を集めて朝廷を倒すという噂が広まり、仕方なく兵を集めて乱を起こす。

この折、両陣営の為朝、義朝が夜討ちを進言し、上皇側は拒否して天皇方は受け入れ、天皇側が勝利する、というエピソードも。

この時に、崇徳上皇側についた人間は処刑となり、より源側がより多くついていた為、源氏は力を失い平氏が勢力を増す事に。

なお、藤原忠通の息子の慈円という僧が愚管抄にこの周辺の話を書いている。

平治の乱(1160)

後白河天皇は二条天皇に位をゆずり上皇となる。 鳥羽法皇の側近だった信西と清盛が組んで勢いを増す。

それに対抗する為に義朝が選んだのが上皇に気に入られている藤原信頼(信西と対立している)。

信西側

  • 平清盛

藤原信頼側

  • 源義朝
    • 源義平
    • 朝長
    • 源頼朝(初陣、13歳)

清盛が都をあけた時を狙って義朝が上皇の身柄を確保し信西を自害に追い込む。 だがそのあと二条天皇と上皇を幽閉し、信頼が勝手気ままに振る舞う。

信頼は信西と対立していたが平氏には特に気にしていなかったため清盛は都に戻り、従うふりをする。

そして二条天皇を女装させて清盛の屋敷に逃走させて、上皇は仁和寺に避難して中立の立場となる。

そして清盛は天皇の命令を受けて信頼、義朝陣営を討つ。

義朝は長男義平を北陸に逃し、次男は傷が酷くとどめをさし、三男の頼朝は捉えられる。 義朝はかつての部下を頼るが風呂上がりを襲われ息絶える。 義平ものちにつかまり斬首される。

平治の乱の後、頼朝を処刑するのを清盛の継母、池禅尼が助けるように嘆願し伊豆に流す事に。

鹿ヶ谷の陰謀(1177)

後白河法皇のお気に入りだった清盛の嫁の妹、平滋子が病没すると、後白河法皇と清盛の間で対立が深まる。

後白河法皇の近臣たちが鹿ヶ谷に集まり、瓶子が倒れたのでへいしの首を落としてしまおう、 などといって盛り上がっていた。

これを告げ口された清盛は激怒し、参加者を処刑したり島流しにしたが、後白河法皇だけは自分の娘(徳子)が皇子を生むまでは手出しを控える。

治承三年の政変(1179)

鹿ヶ谷の陰謀の翌年子供が生まれ、二年後に後白河法皇を鳥羽殿におしこめて院政を終わらせる。 これを治承三年の政変という。

治承三年の政変 - Wikipedia

源氏の蜂起

後白河法皇の第三子、以仁王が、源頼政とともに、源氏を集めて清盛を討とうとしたところ、 この計画が漏れて二人は追われる事になり、どちらも討たれる。 だがこの時に以仁王が全国に命じた言葉が「以仁王の令旨」として全国の源氏が起つ事になる。