伊勢平氏について、清盛を中心にまとめる。
なお、池禅尼は清盛の継母。
清盛の正室。後白河上皇の女御となった滋子の姉。 高倉天皇の中宮として安徳天皇を産んだ徳子の生母。 弟は謀略家の平時忠。
平時忠は「平家に非ずんば、人に非ず」の発言でも有名。 滅亡後に義経と手を結ぼうとしたりした人。
清盛との間には以下の子供を設ける
平滋子
平時子の妹で、後白河上皇に愛され、高倉天皇を産む。院号は建春門院。 平滋子が後白河上皇と平清盛の間を取り持っていたので二人の仲が良かったとか。
なお娘には徳子の他に盛子というのも居る。この盛子と重盛が相次いで病没したのが治承三年の政変のきっかけかもしれない。
上二人は側室、高階基章の娘との間の子。
基盛は24歳で早世。
重盛は鹿ヶ谷事件のあとに病臥し翌々年に病没。重盛の正室は藤原成親の妹(藤原成親は鹿ヶ谷事件で配流)。
知盛は平家が都落ちした後に中国四国地方を制覇して勢力を回復して木曽義仲軍との合戦で圧勝した。
壇ノ浦では宗盛と知盛が出ていて、実質の大将は知盛だったとか。 宗盛とその子供(清宗)は源氏方に生け捕られてしまう。
重衡は墨俣川の戦いで源行家らの軍勢を撃破。一の谷では生け捕られて、和平に助力したりするも、東大寺の焼き討ちの責任を問われて処刑される。和歌や音曲にも長けた文武両道の人。
平経盛と平教盛は、高齢だが壇ノ浦に参加して入水した。一の谷で子供を多く失う。
平頼盛は池禅尼の子供で後白河上皇の側近で、かつ頼朝に助命されて官職にとどまったりした。
忠度は一の谷の大将として討ち死に。歌人で教養人。
平経正(嫡子)は琵琶の名手で青山という琵琶の名器を与えられていた。
敦盛(三男)は横笛の名手。一の谷で乱戦の中家臣とはぐれて討たれる。「ただとくとく首をとれ」と答えたのは有名。 この敦盛の最後は平家物語に詳しく扱われ、舞や謡曲の題材にもなる。信長が好んだ舞の敦盛もこれだとか。
もともとは重盛が清盛の後継者だったので、その嫡子の維盛は嫡孫の予定だった。 だが重盛が病没し、宗盛が後継者になると、維盛は嫡孫では無くなる。
さらに異母弟の資盛が正室の生まれであった事から、治承三年の政変以後以後は資盛の方が出世するようになる。
維盛は頼朝挙兵時の富士川の戦いの総大将だったが戦わずに都に逃げ帰り、歴史に汚名を残した。 これを清盛は厳しく叱責したとの事。
その後重衡(清盛の子供、維盛の叔父)と維盛は協力して墨俣川の戦いで源行家を破っている。
その後木曽義仲を討伐するべく派遣されたが敗北。 事実上失脚していたのか、一の谷に参加しているが敗北後に出家している。
また、平維盛と藤原成親の娘の子である平六代は、平家物語の「六代被斬」で扱われていて、 出家していたがその支援者の文覚が政争で配流になってしまい、二代目将軍頼家の命令で斬られた。
正室の生まれだったからか、治承三年の政変以後はどんどん出世していき、初期には軍功も多かったが、 後半はあまり冴えず壇ノ浦でも特に目立った活躍をせずに命を落としている。 重盛の後継者は資盛だったという書物もあるとの事。