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【書籍】プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

Contents:
  1. 購入、動機など 2024-06-23 (日)
  2. 読み終わり、感想など 2024-07-03 (水)
    1. 衝撃的な内容でありながら、凄い説得力のある話だった
    2. プロテスタントの凄く一面的な部分についてとても詳しくなる
    3. 近代という事や近代の資本主義と現代の違い
    4. 労働者の創意工夫的な事にある程度配慮しているのが驚き
    5. 教会が無くて各個人の規律な事の大切さ
    6. 読みづらさ(はそこまででも無い)
    7. 最後の訳者解説は酷い

購入、動機など 2024-06-23 (日)

【書籍】自由論がなかなか良かったので、何かそういう古典を読みたいな、と思い、【書籍】社会学史で詳しく扱われていて面白そうだった、 ウェーバーのプロ倫を読む事にする。 最初の方を読んだ感じでは読みやすくて良さそう。

この辺の哲学書は考えるための考え、みたいなのが多くてあまり読む気が起こらないのだが、プロ倫はそういう感じでは無く具体的な話について、 割と具体的な所から考えていくので、興味が持続しやすい。

読み終わり、感想など 2024-07-03 (水)

読み終わった。なかなか面白かったのもあり、一気に読まないと忘れそうだというのもあって、割と短期間で読んだな。 なお注はだいたい飛ばした。

感想などを書いて行きたい。

衝撃的な内容でありながら、凄い説得力のある話だった

資本主義的な精神と言われるものとして、確かにかつての資本主義にはこういう所あったよな、と思うようなものが、 プロテスタントの世俗内禁欲を元にしている、という話を、細かく見ていく内容だった訳だが、 このように要約すると陰謀論的な陳腐な話に見えてしまうが、 内容的には非常に説得力があったし、 実際たぶんそういう要素は結構でかかったんだろうな、と説得された。

また、明治維新や高度経済成長の日本などには、そうした思想というか規律との親和性がそれなりにあったよなぁ、とも思う。 予定説のようなものや己を審査するような所はそこまで強くは無いのだけれど、 職業倫理を推し進めて宗教的な色彩を帯びるような所はあったよなぁ、と思う。 そうした様々な事を考えさせるようなきっかけになるような本で、とても読む価値のある有意義な本だったと思う。

読み終わると、凄いアメリカ合衆国の本質を分かった気分になるが、まぁそれはさすがに気のせいというか単純化し過ぎだろうな、とは思う。 けれどルーツの一つにこういう要素が強くあったとは言えそうだ。 なんかヒスパニックとかマイノリティーとか言い出したあとのUSにはこういう感じは無くなっているんだよな。 80年代くらいまでのアメリカって感じだよな。

プロテスタントの凄く一面的な部分についてとても詳しくなる

プロテスタントの話が細かく、知らない事ばかりで、しかも彼らの主な関心であったであろう、 いかにキリスト教的に正しいかというような観点を完全に無視した比較なので、 かえって面白く見れた。 著者の立場に引きずられた歪みが少ない気がする。 どちらがより近代資本主義的な考えに近いか、と言われた所で、当人たちは全然反論して「俺たちの方がより資本主義だよ!」とか言いたいとは思わないだろう。 彼らも後世の人たちにこんな側面で比較されてしまうとは夢にも思わなかったに違いない。

そんな謎の側面からの比較だけれど、これがとても詳しく行われている。 全然本題と関係ない側面であるがゆえに、どの考え方相手にも同じ基準で測る事が出来て、 かえって門外漢の自分には理解しやすかった。 各宗派の思想の深淵は何も理解していないと思うし、そんな解説はしていないが、 少なくとも各宗派の外部とのインターフェース的な部分から見える特徴は良く捉えられているんだろうな、とは思える。

ルター派とカルバン派とピューリタンの違いとか良く分かってなかったが、それらについての一定の理解が得られた上にもっとたくさんの聞いた事も無いようなものたち(ドイツ敬虔派、洗礼派、メソジスト派など)の事もいろいろと知る事になり、 プロテスタントというものの解像度が上がったと思う。

近代という事や近代の資本主義と現代の違い

マルクスといいウェーバーといい、近代というものについての特別な感情のようなものを凄く感じる。 近代の人たちにとっては近代というのは初めての事で、一体この先どうなってしまうんだ?という思いがあったのだと思う。 凄く良い何かになる、と思う人もいれば、凄くひどい事になる、と思っていた事もいたと思う。 そして2つの大戦は、凄く酷い事になる、という事の結果だったとも言える。

だが現代の我々は、近代というものが持っていた性質を引き継いだまま長い事日々を過ごした先に居て、 そこはめちゃくちゃ酷い事にもなっていなければ、凄く素晴らしい何かという訳でも無い、 普通の日常としての日々に慣れてしまっている。 だから近代というものの特別さというものが、当時の人ほど特別には感じなくなってしまっている。

むしろ近代よりも前、例えばローマや秦やアッバース朝などのそれぞれの凄い事などを見て、そうしたものの凄さが近代にも劣らない的な価値観に多く接している気がする。 だから逆に近代の特別さを過小評価しがちなんじゃないか。

でも近代の思想などを見ると、確かに近代には多くの特別な要素はあったな、という事にあらためて気付かされる。 そしてそのうちの大きな要素の一つである、近代資本主義というものの特別さについて、 この本は凄く良く書けているので、確かにそういうところは近代の資本主義特有であり、結構重要な結果を生んでいるよな、と説得される。

一方で現代の資本主義と近代の資本主義は、結構違いも感じられる。 近代の資本主義は、マルクスもウェーバーも工場的なものが念頭にあるように思う。 ソフトウェア開発の現場とは結構印象が違う。

ちなみにこの本は、そもそも資本主義の精神が「生まれた」メカニズムの話であって、 生まれたあとにそれに適応するのに必要な条件を述べている訳では無い。 だからプロテスタントで無くても別に資本主義にうまく適応する事は出来る。

労働者の創意工夫的な事にある程度配慮しているのが驚き

工場労働的に見える世界観でありながら、 資本主義的な労働というのが、結構創意工夫が必要で、 社員が与えられた労働時間などの義務をなるべく楽してこなして給料をもらおうとしては上手くいかない、 という事について考察されているところは、現代的だな、と思った。

仕事を神のために全身全霊で行う、という姿勢を持った労働者が、資本主義的な労働者で、それの重要性を指摘している。 これは日本の職人賛美的な奴でもたまに見られる何かに思う。

経済学では労働者のインセンティブは仕事と対立しがちで、この辺をうまく処理出来ていないように思う。 ウェーバーの説の方が、実際の労働者の実態を良く捉えているようにも思う。

教会が無くて各個人の規律な事の大切さ

本書ではシステマティックに規律を押し付けるところが教育効果として大切という話をしていて、 それはまぁそうなんだろうけれど、一方でこれが教会が信徒に行うのでは無くて、 個人が自分を絶えず監視する、という、自立した思考であることも大切だったんじゃないかなぁ、と思う。 (そういう記述もあったかもしれないが覚えてない)

予定説が資本主義の精神的な事との関連で特別なのは、何かの権威から倫理を押し付けられるところでは無く、 自分から進んで自身の生活の規律を高めていくところにあると思うのだけれど、 この自律的な考えというのが資本主義社会にとって大切な訓練になっていたんじゃないか。

近代労働のためには同じ時間に出勤して時間で働くという事が出来る必要があって、これには訓練が必要というのは良く指摘されるところだけれど、 大きな工場のようなものに人を集めて皆に同じ事を強制的にやらせる、みたいなモデルでも、それは実現出来ているにもかかわらず、それでは実際は上手く行かないんだよな。 単に時間や約束を守るだけでは不十分で、 各自が自分の仕事をある程度自主的に考えて取り組む必要がある。 これは単に強制させて習慣化するだけではうまく行かない。

けれどプロテスタンティズムの倫理というのはその自分で考えていく訓練になっていて、 それは現代の視点からももっと良い代替案の思いつかないような有効なものである気はした。

これが良い事なのかは良く分からない部分もあるが、現代を生きていくのにも有効な姿勢ではあるだろう。 だから練習して身につけたいと思う人も居ても不思議では無い。

もし現代でこうした傾向を復活させようとするなら、何らかの宗教的なものを入れるのが有効なのかもしれない。 宗教である必要は無いが、道徳とか倫理としての同じような何かだよな。 神は細部に宿るとかお天道様が見てるとかそういう何か。

読みづらさ(はそこまででも無い)

古典なので、かなり文章は読みにくい。翻訳がかなり頑張ってはいると思うのだけれど、それでも現代の文章を読むのとはだいぶ違う。 これはミルの【書籍】自由論でも同様なので、この本がどうとか訳がどうとかいう問題では無いとは思う。

一方で、その事を前提として読めば、この本は思ったよりも読みやすかった。 この前にサルトルとかフッサールの本でも読むか、と思ってサンプルだけ読んでこれは無理だ、と思ったあとだったので、なお一層そう思ったと思う。

この本が見た目より読みやすいと思う事としては、議論の対象が近代資本主義に特有の精神がどこから来たのか、 という、現代の普通の人でも理解しやすいトピックだというのが多いと思う。 哲学書なんかの、延々と分類とか定義とかしながら何も話が進まずにひたすらページだけが進んでいく、 何がやりたいんだお前ら感が無い。

プロテスタントの様々な派閥の有名な歴史的な事件などがたくさん出てきて、それはほとんど自分は知らないので、そういうところはついていけないところも多かった。 注が大量にあるけれど、注はほとんど飛ばした。 たぶん注を読んでいると本題についていけない気がしたので。 という事でそれ系のは良く分からないなぁ、と思う事も多かったが、 その辺は派生的な話なので、分からなくてもそこまで困らなかった。

という事で思ったよりはだいぶ読みやすかったが、それでもやはり読むのは大変だよなぁ。 プロ倫でSNSなどを検索すると、読んでみたいがとても無理という感じの学生と思しき発言がたくさん引っかかる。 確かにこれを読むのはそれなりにこういうのを読むのに慣れていないと厳しい。 こういう難しさに意義があるとは思えないのだけれど、 この手の古典を簡単にわかりやすく説明しようというたくさんの試みがどれもろくでもない結果に終わっているのを思うと、 避けられないものなのかもしれない。

一方でこうした難しさに慣れていると、この本とか【書籍】自由論とかのように良い本に出会える事も多いので、読める方がいいのかもしれない。 この手の本はたまに読んでないと読むの大変になるので、なんか定期的な訓練みたいなのが居るよなぁ。

最後の訳者解説は酷い

なかなか素晴らし本だったと思うのだが、最後の訳者解説が酷い。

本文の内容を訳者がもう一度独自の説明の仕方で解説している。当然紙幅は少ないので雑な論の組み立てになっている。 ウェーバーが緻密にいろいろな事に配慮しながら話を進めていたのを台無しにするようなやり方で同じ内容を説明する。 しかも本文よりは短いとは言え、かなり長い。 なぜ同じ内容を別の雑なやり方で説明するのだろうか? 訳者はウェーバーの専門家だろうし、わざわざこの本を訳したくらいにウェーバーの文章の価値を理解しているはずなのに、 なんでそのウェーバーの説明に任せずに同じ内容を雑に長々と説明し直す、なんて事をしてしまったのか。

しかも、なんか本文を読んでない前提で解説されているんだよな。あとがきとかから読む人も居るとは思うけれど、 本の最後にあるこの手のものは、普通は本文を読んだあとに読むものだろう。 なんで読んでない事前提で解説をするのか。

なんか学生がレポートとか書かなくちゃいけないが、本文が難しくて読めない!という場合のために、この訳者の解説だけ読んでレポートを書けるように作られたんじゃないか、とか勘ぐってしまう。

とにかく頑張って最後まで読んでたどり着いたのがこれで本当にがっかりだった。なんでこんな事してしまったのか。