イギリスの歴史を学ぼうと以下の新書をポチる。
【書籍】14歳から知る影響と連鎖の全世界史などを読んでいて、 そういえばイギリスってあんまり知らないよな、と思い、イギリスの歴史に関する本でも簡単に読もうかな、と探して見つけた本。
今はノルマン人のギョームとかの話(1066年くらい)で、なんか昔ノルマン人の本を読んだ時にこの辺やったなぁ、という感じ。忘れたが。 ここまでの話も読んだだけだとすぐ忘れちゃうね。 メモしておいた方が良かったかもしれないが、まぁそこまで真面目に学ぶ気がある訳でも無いので、サラサラ読んでサラサラ忘れようと思う。
アンリ2世くらいになると前に出てきた登場人物の後始末みたいなのが増えてきて、 スティーブン派とマティルダ派とかが出てきたりといろいろ分からなくなってきて、読み進めるのが辛くなってきた。
やはりノート作らないと駄目だな、と心をいれかえて、ノートを作る事にする。
ローマのあとにアングロ=サクソンがやってきて、現地住民を西や北に追い出し、西がウェールズ、北がスコットランドと呼ばれるようになる。 アングロ=サクソンの占拠した地域はイングランド(アングル人の土地の意)と呼ばれるようになる。
イングランドは首長が戦士団を率いて拠点を作り国が形成されていくが、これが7世紀初頭までに7つの大きな王国に集約されていく。
8世紀前半のマーシアの王で、この頃イングランドの中央部をまとめ、「マーシアの王だけでなく南イングランドのすべての者の王」を自称するようになるが、暗殺されてマーシアは内乱状態に。
マーシアの内乱を鎮めたのがエゼルバルドの従兄弟のオファ王(在位757〜796年)。
内乱を鎮めたあとにエセックス、サセックスの王家を滅ぼし、県ととイーストアングリアも王家を一時的に断絶に追い込む。 ウェセックスには宗主権を認めさせる。
ウェールズの国境地帯に防塁(ダイク)を次々と建設して圧力をかける。
イングランド初の本格的な法典を編纂し、通貨を造幣してこの通貨がイングランド全土で流通した。
マーシアの次はデーン人の襲来があり、その後ウェセックスの王朝が続く。
オファ王没後、830年代くらいからスカンジナビアからやってきた北ゲルマン系のデーン人が侵攻してくるようになった(バイキング)。 856年にはイングランドまでやってきて、イーストアングリア、ノーザンブリアなどを制圧してウェセックスまでたどり着いた。 この頃にウェセックスの王に即位したのがアルフレッド王。
アルフレッド王はデーン人を見習い移動には馬を使い、各地に砦(ブルフ)を築き、農民兵を募集して半年交代で軍務につける。 オファ王以後闘争が続いていたマーシアとも手を結び、デーン人を退ける事に成功。 マーシアのエゼルレッド王に娘のエゼルフレダを嫁がせた。
その後、ウェセックスのイネ王やオファ王の法典を踏襲しつつ独自の法も導入して新たな法典を編纂させた。
ラテン語が得意で多くの作品を残した。
イングランド内ではウェセックスが優勢となる。
アルフレッドの孫のアゼルスタンでイングランドの統一を決定づける事に成功。
アゼルスタンはアルフレッドの嫡男のエドワードの長子。 また、先述のエゼルフレダの宮廷で育てられた。
エゼルフレダは夫の死後マーシアのレイディ(女王)として君臨したエゼルフレダ(アルフレッドの娘、アゼルスタンの伯母)の宮廷で育てられた。
こうしてウェセックスとマーシア双方の正当な後継者として登場した。
イングランド北部でデーン人を撃退し、イングランド王となる。 賢人会議を設置。
アゼルスタンの甥。イングランドが名実ともに統一王国に。キリスト教式の国王の戴冠式を開始。
エドガー王が亡くなると、長男のエドワードと異母弟の次男のエゼルレッドの派閥で抗争が生じ、エドワードの即位3年後にエドワードが暗殺されてエゼルレッドが王につく。 エゼルレッドは賢人会議への相談を怠り、王としての資質も欠けて、無思慮王と呼ばれるように。 有力者も徐々に王からの自立を図るようになる。
この頃にデーン人が再襲来し、同じく被害を受けたノルマンディー公リシャールと同名を結び、妹のエマと結婚。 ノルマンディーとの関係始まる。
エゼルレッドは少数の側近との話し合いだけでイングランド内のデーン人の皆殺しを決定。デンマーク王スヴェンが激怒、オクスフォードを焼き討ちにし巨額の銀貨を賠償金として払う。
エゼルレッドはノルマンディに亡命し、スヴェンを王として向かえる。ここでスヴェンが急死し、ハーラルがデンマーク王に、次男のカヌーとがイングランド王となる。 一方エゼルレッドはイングランドに帰還して王位を奪還、それに対してカヌートはデンマークから大軍を引き連れて上陸し、ロンドンを目指す。 この間にエゼルレッドが亡くなり(1016年)、その長子エドマンド2世がアシンドンの戦いでカヌートに敗れ、カヌートが全イングランドの王と認められる。
カヌートは征服者ではなく正当なイングランド王として有力者に認められる事を望み、 エドガー王の法を継承する事を宣言し、エゼルレッド王の未亡人のエマと結婚。
ところが1019年に兄が亡くなりデンマーク王も兼ねる事になり、イングランド不在が多くなる。
そこでイングランドをノーサンブリア、イーストアングリア、マーシア、ウェセックスの4つのアールダム(伯領)に分け、 それぞれ各伯(アール)に委託して統治させていく体制を確立。ここで地方の最有力貴族が伯となる。
カヌートの時代にマーシア伯レオフリック(奥方が有名なゴディバ)とウェセックス伯ゴドウィンが台頭する。特にゴドウィンが勢力を増す。 ゴドウィンはもともと地方豪族に過ぎなかったがカヌートにすり寄りウェセックス伯に納まる事に成功。
カヌートの死後王位継承を巡る混乱が生じ、そこにエゼルレッド王の遺児アルフレッドを暗殺させて、 アルフレッドの弟エドワードを擁立して彼を王につける。
エドワードは熱心なキリスト教徒であり、エドワード証聖王と呼ばれるように。彼はエゼルレッドの子。
エドワードは即位までの25年間をノルマンディで過ごし、日常会話はフランス語、政治文化もフランス流に馴染み、 政治や宗教の有力者をノルマン人が占めるようになり、イングランドの有力貴族が反発を示すように。 その反対派の筆頭がゴドウィン。
ゴドウィン達はこの頃には「強すぎる家臣たち(オーバーマイティーオブジェクツ)」と呼ばれるようになる。
抗争の結果一時的にゴドウィンを国外追放したりもしたが、最終的にはゴドウィンが優勢となりエドワードは傀儡に、ノルマン人の側近も追い出される。 ゴドウィンが急死したあとは次男のハロルドがウェセックス伯としてあとを継ぎ、同様に権力基盤を固める。
証聖王はノルマンディ公ギョームを後継者に指定した、とされるが、証拠は無い。 1065年ころにハロルドが使者としてギョームに派遣され、後継者に指名したとか。
証聖王の死後は賢人会議ではウェセックス伯ハロルドが国王に選出された(以後ハロルド2世と呼ばれるように)。 これに異議を唱えたのがノルウェー王ハーラルとノルマンディ公ギョーム。 この三人による三つ巴の戦いに。
ハロルドはハーラル軍を撃破しハーラルも戦死。200年に渡るデーン人の襲来に幕を閉じる。
その後ギョームとハロルドはヘイスティングスの戦いでギョームが勝ち、ハロルド二世は戦死。
ギョームは英語読みのウィリアム一世として王位につく。以後ノルマン王朝。
戴冠式を行ったあと、ウェールズ、スコットランドの反乱を鎮圧し、征服を完成させる。
土地の所有や教会の要職はノルマン人が占めて、公用語はフランス語にされた。
土地台帳の作成を命じ、それはドュームズデイブックと後に名付けられた。
イングランド各地に防衛のための白を築く。有名なのがロンドン塔とウィンザー城。
ウィリアム一世の子供は以下のような相続予定だった。
このロベールは何度か他の勢力と結びウィリアム一世に反抗してきた。
ギョームはイングランドを継ぎウィリアム2世となったが、ロベールがこれに横槍を入れ、ノルマン系貴族もノルマンディーとイングランドを同じ人が治める事を望みロベールになびき、反乱を幾度も起こす。
けれど十字軍が結成されロベールも参加する事になり、 ノルマンディーをウィリアム2世に預ける事にする。
ロベールが十字軍から帰って来る頃にウィリアム2世は狩りに出かけて事故死してしまう。
ウィリアム2世の事故死に素早く反応したのが弟のアンリで、戴冠式を挙げてヘンリ1世となる。