イギリスの歴史を学ぼうと以下の新書をポチる。
【書籍】14歳から知る影響と連鎖の全世界史などを読んでいて、 そういえばイギリスってあんまり知らないよな、と思い、イギリスの歴史に関する本でも簡単に読もうかな、と探して見つけた本。
今はノルマン人のギョームとかの話(1066年くらい)で、なんか昔ノルマン人の本を読んだ時にこの辺やったなぁ、という感じ。忘れたが。 ここまでの話も読んだだけだとすぐ忘れちゃうね。 メモしておいた方が良かったかもしれないが、まぁそこまで真面目に学ぶ気がある訳でも無いので、サラサラ読んでサラサラ忘れようと思う。
アンリ2世くらいになると前に出てきた登場人物の後始末みたいなのが増えてきて、 スティーブン派とマティルダ派とかが出てきたりといろいろ分からなくなってきて、読み進めるのが辛くなってきた。
やはりノート作らないと駄目だな、と心をいれかえて、ノートを作る事にする。
イギリス北東部を支配していたイケニ族の女王。娘二人を凌辱された女王は、61年にロンディニウム(のちのロンドン)でローマ人を多数虐殺して反旗を翻す。 鎮圧されるが、ヴィクトリア女王がロンドンに銅像を作らせたとか。
ローマのあとにアングロ=サクソンがやってきて、現地住民を西や北に追い出し、西がウェールズ、北がスコットランドと呼ばれるようになる。 アングロ=サクソンの占拠した地域はイングランド(アングル人の土地の意)と呼ばれるようになる。
イングランドは首長が戦士団を率いて拠点を作り国が形成されていくが、これが7世紀初頭までに7つの大きな王国に集約されていく。
8世紀前半のマーシアの王で、この頃イングランドの中央部をまとめ、「マーシアの王だけでなく南イングランドのすべての者の王」を自称するようになるが、暗殺されてマーシアは内乱状態に。
マーシアの内乱を鎮めたのがエゼルバルドの従兄弟のオファ王(在位757〜796年)。
内乱を鎮めたあとにエセックス、サセックスの王家を滅ぼし、県ととイーストアングリアも王家を一時的に断絶に追い込む。 ウェセックスには宗主権を認めさせる。
ウェールズの国境地帯に防塁(ダイク)を次々と建設して圧力をかける。
イングランド初の本格的な法典を編纂し、通貨を造幣してこの通貨がイングランド全土で流通した。
マーシアの次はデーン人の襲来があり、その後ウェセックスの王朝が続く。
オファ王没後、830年代くらいからスカンジナビアからやってきた北ゲルマン系のデーン人が侵攻してくるようになった(バイキング)。 856年にはイングランドまでやってきて、イーストアングリア、ノーザンブリアなどを制圧してウェセックスまでたどり着いた。 この頃にウェセックスの王に即位したのがアルフレッド王。
アルフレッド王はデーン人を見習い移動には馬を使い、各地に砦(ブルフ)を築き、農民兵を募集して半年交代で軍務につける。 オファ王以後闘争が続いていたマーシアとも手を結び、デーン人を退ける事に成功。 マーシアのエゼルレッド王に娘のエゼルフレダを嫁がせた。
その後、ウェセックスのイネ王やオファ王の法典を踏襲しつつ独自の法も導入して新たな法典を編纂させた。
州制を整備。
ラテン語が得意で多くの作品を残した。
イングランド内ではウェセックスが優勢となる。
アルフレッドの孫のアゼルスタンでイングランドの統一を決定づける事に成功。
アゼルスタンはアルフレッドの嫡男のエドワードの長子。 また、先述のエゼルフレダの宮廷で育てられた。
エゼルフレダは夫の死後マーシアのレイディ(女王)として君臨した。アゼルスタンはこのエゼルフレダ(アルフレッドの娘、アゼルスタンの伯母)の宮廷で育てられた。
こうしてウェセックスとマーシア双方の正当な後継者として登場した。
イングランド北部でデーン人を撃退し、イングランド王となる。 賢人会議を設置。
州制を発展させ伯を置く体制に。
アゼルスタンの甥。イングランドが名実ともに統一王国に。キリスト教式の国王の戴冠式を開始。バースで行う(ステンドグラスが今も残るとか)。
エドガー王が亡くなると、長男のエドワードと異母弟の次男のエゼルレッドの派閥で抗争が生じ、エドワードの即位3年後にエドワードが暗殺されてエゼルレッドが王につく。 エゼルレッドは賢人会議への相談を怠り、王としての資質も欠けて、無思慮王と呼ばれるように。 有力者も徐々に王からの自立を図るようになる。
この頃にデーン人が再襲来し、同じく被害を受けたノルマンディー公リシャールと同名を結び、妹のエマと結婚。 ノルマンディーとの関係始まる。
エゼルレッドは少数の側近との話し合いだけでイングランド内のデーン人の皆殺しを決定。デンマーク王スヴェンが激怒、オクスフォードを焼き討ちにし巨額の銀貨を賠償金として払う。
エゼルレッドはノルマンディに亡命し、スヴェンを王として向かえる。ここでスヴェンが急死し、ハーラルがデンマーク王に、次男のカヌーとがイングランド王となる。 一方エゼルレッドはイングランドに帰還して王位を奪還、それに対してカヌートはデンマークから大軍を引き連れて上陸し、ロンドンを目指す。 この間にエゼルレッドが亡くなり(1016年)、その長子エドマンド2世がアシンドンの戦いでカヌートに敗れ、カヌートが全イングランドの王と認められる。
カヌートは征服者ではなく正当なイングランド王として有力者に認められる事を望み、 エドガー王の法を継承する事を宣言し、エゼルレッド王の未亡人のエマと結婚。
ところが1019年に兄が亡くなりデンマーク王も兼ねる事になり、イングランド不在が多くなる。
そこでイングランドをノーサンブリア、イーストアングリア、マーシア、ウェセックスの4つのアールダム(伯領)に分け、 それぞれ各伯(アール)に委託して統治させていく体制を確立。ここで地方の最有力貴族が伯となる。
カヌートの時代にマーシア伯レオフリック(奥方が有名なゴディバ)とウェセックス伯ゴドウィンが台頭する。特にゴドウィンが勢力を増す。 ゴドウィンはもともと地方豪族に過ぎなかったがカヌートにすり寄りウェセックス伯に納まる事に成功。
カヌートの死後王位継承を巡る混乱が生じ、そこにエゼルレッド王の遺児アルフレッドを暗殺させて、 アルフレッドの弟エドワードを擁立して彼を王につける。
エドワードは熱心なキリスト教徒であり、エドワード証聖王と呼ばれるように。彼はエゼルレッドの子。
エドワードは即位までの25年間をノルマンディで過ごし、日常会話はフランス語、政治文化もフランス流に馴染み、 政治や宗教の有力者をノルマン人が占めるようになり、イングランドの有力貴族が反発を示すように。 その反対派の筆頭がゴドウィン。
ゴドウィン達はこの頃には「強すぎる家臣たち(オーバーマイティーオブジェクツ)」と呼ばれるようになる。
抗争の結果一時的にゴドウィンを国外追放したりもしたが、最終的にはゴドウィンが優勢となりエドワードは傀儡に、ノルマン人の側近も追い出される。 ゴドウィンが急死したあとは次男のハロルドがウェセックス伯としてあとを継ぎ、同様に権力基盤を固める。
証聖王はノルマンディ公ギョームを後継者に指定した、とされるが、証拠は無い。 1065年ころにハロルドが使者としてギョームに派遣され、後継者に指名したとか。
証聖王の死後は賢人会議ではウェセックス伯ハロルドが国王に選出された(以後ハロルド2世と呼ばれるように)。 これに異議を唱えたのがノルウェー王ハーラルとノルマンディ公ギョーム。 この三人による三つ巴の戦いに。
ハロルドはハーラル軍を撃破しハーラルも戦死。200年に渡るデーン人の襲来に幕を閉じる。
その後ギョームとハロルドはヘイスティングスの戦いでギョームが勝ち、ハロルド二世は戦死。
ギョームは英語読みのウィリアム一世として王位につく。以後ノルマン王朝。
戴冠式を行ったあと、ウェールズ、スコットランドの反乱を鎮圧し、征服を完成させる。
土地の所有や教会の要職はノルマン人が占めて、公用語はフランス語にされた。
土地台帳の作成を命じ、それはドュームズデイブックと後に名付けられた。
イングランド各地に防衛のための白を築く。有名なのがロンドン塔とウィンザー城。
ウィリアム一世の子供は以下のような相続予定だった。
このロベールは何度か他の勢力と結びウィリアム一世に反抗してきた。
ギョームはイングランドを継ぎウィリアム2世となったが、ロベールがこれに横槍を入れ、ノルマン系貴族もノルマンディーとイングランドを同じ人が治める事を望みロベールになびき、反乱を幾度も起こす。
けれど十字軍が結成されロベールも参加する事になり、 ノルマンディーをウィリアム2世に預ける事にする。
ロベールが十字軍から帰って来る頃にウィリアム2世は狩りに出かけて事故死してしまう。
ウィリアム2世の事故死に素早く反応したのが弟のアンリで、戴冠式を挙げてヘンリ1世となる。
権力基盤を固めるためにスコットランド王マルコム3世の娘、イーディスと結婚する。 イーディスは、エドワード証聖王の甥でノルマン征服後も王位継承権を訴えていたエドガーアゼリングの姪。
十字軍から帰ってきたロベールが後を継ぐ約束をしていたので怒るが、1101年に年3000マルク(2000ポンド)を払う事で和解する。 その後体制を整え1106年9月、タンシュブレーの戦いでヘンリ1世がロベールに勝利しノルマンディとイングランドを両方統治する事になる。
財務、尚書部、巡回裁判などの組織を整備、拡充した。
フランス王ルイ6世はアングロ=ノルマン王国の拡大を恐れて、ヘンリ一世をノルマンディ公には認めていなく、 ロベールの息子のギョームクリフトを擁立しようと画策してヘンリ一世と対立していた。
ルイ6世とヘンリ一世はどちらもアンジュー伯やフランドル伯を味方につけようと暗躍した。 この時にヘンリ一世の長子ウィリアムとアンジュー伯の長女マチルダを結婚させる。(これは娘のマチルダとは別人)
最終的にヘンリ一世はルイ6世-ギュームクリフト軍をブレミュールの戦いで退け、息子のウィリアムのオマージュを認めてウィリアムが正式なノルマンディの後継者となる。
ただしその後ウィリアムは20歳にもならずに船の事故で亡くなる。
ヘンリ1世にはマチルダという娘が残っていた。 神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ5世と結婚していたが世継ぎを残すことなく寡婦となり、これをヘンリ一世がイギリスに呼び戻し、自身の後継者として有力貴族達に認めさせる。
世継ぎを残すためにアンジュー伯ジョフロワと再婚。ヘンリという息子を授かる(祖父のヘンリ一世と同じ名前)。
だが、ヘンリ一世が亡くなった時に、先に動いたのはモルタンブーローニュ伯のエティエンヌだった。彼の母アデラがヘンリ一世の姉で、イングランドをしばしば訪れて親しまれていた。 こうして素早く動いてエティエンヌの王位は公式に認められて、名前をスティーブンに改名する。 なお、スティーブンの嫁もマチルダという名前なので、皇妃の方と区別して王妃マチルダと書く事にする。
皇妃マチルダは気性も激しく、アンジュー伯はノルマンディとの対立も長かったのでアンジュー伯の勢力を嫌っていた貴族たちはスティーブンを支持したとか。
こうしてスティーブンがイングランドの王位につくが、皇妃マチルダは当然これに意義を唱えて対立していく。 両者は争いを続けて、皇妃マチルダが勝利するが、王妃マチルダが抵抗を続けて長い内戦が続く事になる。 この内乱はヘンリ1世の死から数えて18年続く事になる。
最終的には皇妃マチルダとジョフロワの息子アンリが王位を次ぐ事となる。
皇妃マチルダの息子アンリは、父のジョフロワからノルマンディを譲り渡され、さらにジョフロワ没後にはアンジュー伯も継承する事になる。 このアンリが後のヘンリ2世である。
さらにルイ7世と離婚したアリエノールと結婚する事になり、彼女はアキテーヌ公領の相続人なので、アンリはノルマンディ、アンジュー、アキテーヌというフランスの広大な領地を有する領主になってしまう。
この後スティーブンは後継者の息子を突然死で失い、ウェストミンスター条約が結ばれる。ここで、
という事が決まった。これを持って内乱は終結する。 この翌年にスティーブンは没する。
イングランドの王位を継いでヘンリ2世となる。
ヘンリ2世からプランタジネット朝と呼ばれる王朝が始まる。 アンジュー家の家紋のエニシダから来た名前だとか。
イングランドの領土回復を目指す。ウェールズはオウェイン-グヴィネッズがプリンス・オブ・ウェールズを名乗ってヘンリ2世に対抗。
カンタベリー司教のケベットと教会裁判権を巡って対立、ケベットを暗殺してしまうが教皇アレクサンドル3世が圧力をかけて教会裁判権へは譲歩する事で決着する。
また治世の半分くらいはフランス側で過ごさなくてはいけないほど、フランス側の領土の維持にも困難があった。 子どもたちがフランス王フィリップ2世と組んでことあるごとに揉め事を起こした。
若王(ヘンリ2世の次男ヘンリ)が亡くなり、三男のリチャードがアンジュー帝国を引き継ぐ。リチャード一世となる。
リチャード1世はエルサレム奪還を重視して第三回十字軍への参加を表明。その帰りに捉えられて神聖ローマ帝国に引き渡されて10万ポンドにのぼる巨額の賠償金を払う事になる。 その後フィリップ2世が占領していた地の奪還を目指してフランス側にわたり、ほとんどの土地を奪還する事に成功したがそこでの傷が元で亡くなってしまう。
リチャード1世は嫡子が居なかったので、後継者候補は2つに割れた。 リチャードの末の弟のジョンと、上の弟ジェフリの遺児のアーサー。血統的にはアーサーだがまだ当時12歳。
アーサーはアンジュー、メーヌ、トゥレーヌといった諸侯が支持し、 イングランドとノルマンディの諸侯はジョンを推す。 結果としてはジョンが戴冠する。
アーサーはフィリップ2世(尊厳王、オーギュスト)の助けを借りて蜂起するがジョン軍に敗れ逮捕され、のちに遺体で発見される(殺されたとか自殺したとか言われている)。
その後フィリップ2世と対立。 フィリップ2世がノルマンディ、アンジュー、メーヌ、トゥレーヌ、ポワトゥーへと侵攻する。
この頃にはノルマンディとイングランドの両方を所領する諸侯も減り、ノルマンディ周辺でもノルマンディ公とフランス国王の両方に忠誠を示す者も増えてきていて、 あっさりとフランスの軍門にくだる。
その後イノケンティウス3世とカンタベリーの大司教の任命で揉めて対立、破門されて政務停止を宣言される。 この当時は公文書はラテン語で行政長官や尚書部長官などはほとんどが高位聖職者で占められていたため、 ノルマンディ奪還に動く事が出来ずに、やがてイノケンティウスに屈服し、和解。(1213年)
各国がこのような教会からの政治支配から脱却していくのは大学が各地に作られて世俗の人がラテン語を学ぶようになってからとの事。 12世紀までにはオックスフォード、13世紀初頭にはケンブリッジに大学が作られる。
イノケンティウス3世と和解したあとに大陸の領土の奪還に動いたが、フィリップ2世に敗れて逃げ帰ってくる。 さらに課税を増やして再チャレンジをしようとした所、諸侯から反発を受ける。諸侯はエドワード証聖王の法やヘンリ1世の戴冠憲章といった粗法を守る事を要求した。 マグナ・カルタの原型である。
この頃には諸侯も英語を喋るようになり、大陸にはそれほど興味を持たなくなっていた一方、 ジョン王とその取り巻きはフランス語を話し、イギリスにも特に血縁なども無いよそ者という立場だった。
ジョン王は最初これを拒否して内戦になったが、劣勢になった所でジョン王がこれを受け入れる事になる。
その後にジョン王はこれを破棄してふたたび内戦になるも、その途中でジョン王はなくなる。 その後も内戦は続き、国王軍が勝利をおさめる。
マグナ・カルタでは、王による重税や財政的搾取を戒め、諸侯らの助言のない軍役代納金や援助金を禁止すべきと訴え、 課税が議論される場合には諸侯はもとより、中小領主(騎士)や都市の代表らも広く意見を徴する事も要請された。
内戦でジョン王が亡くなり即位したのは、ジョン王の子供で9歳で即位したヘンリ3世。
諸侯軍と和平を結び、以後は「諸侯大会議」で重要事項を決めていく事で同意する。 この会議は即位からの10年で25回も行われた。
この中でマグナ・カルタなどが再確認される見返りに、王軍の遠征費や借財返済のために1/15税が課される事が決まったりした。
諸侯大会議はパーラメントと呼ばれて、のちの議会の原型となる。
ヘンリ3世からはイギリスに滞在する割合が大きく増え、かつてウェセックスとノルマンディを結ぶ要衝として栄えたウィンチェスターは重要度を失い、 ロンドン対岸のウェストミンスターが政治的拠点となっていく。
25歳になって親政を始めてから、大陸への領土の奪還を目指して課税をしようとするも諸侯に反対され、対立する事になる。
さらにイノケンティウス4世から次男のエドマンをシチリア国王に、と打診され、これを受ける。 だがこれには現在支配している神聖ローマ皇帝の私生児のマンフレットとの抗争を行う必要があり、それまでに使った巨額の戦費も肩代わりする事を求められる。 この課税に諸侯は反対して対立を深める。
これに反対した諸侯はオックスフォード条款、ウェストミンスター条款などが作成され、諸侯による政策決定の関与、公正な裁判、法改正、地方行政の進め方についての透明性などが求められた。 この指導者の一人が国王の妹エレノアの夫、レスター伯爵のシモン・ド・モンフォール。
これ以後、シモン・ド・モンフォールの議会、と言われる議会が開かれるようになり、国王と改革派諸侯との一進一退のやりとりが行われるようになる。
なお、ヘンリ3世はルイ9世と、ノルマンディやアンジューなどに対する権利を正式に放棄する見返りにアキテーヌ公と認めてガスコーニュの領有を公式に承認する、というパリ条約が批准される。
議会を重視。この時代の議会にはオックスフォードやケンブリッジで学んだ法律家などが参入するようになる。 また、議会の他に国王評議会(キングス・カウンシル)という行政府も重用するようになった。 これは尚書部長官や財務府長官など、これまでに定着していた官職者が構成員。
この時期(14世紀初頭)はまだ農村社会で経済の主力は農業や牧羊業。
治世後半ではフランスとの戦争の戦費のためなどの課税で議会と揉める。
ウェールズの反乱の鎮圧でウェールズ大公サウェリンを殺害し、 プリンスには赤子の皇太子をつける事になり、以後王子がプリンス・オブ・ウェールズになる習慣が確立される。
エドワード一世の時に決まったフランス王フィリップ4世の娘と結婚する。 外国の取り巻きとかをえらく重用したりして諸侯と対立したり、スコットランドとの戦争に負けたりと割といい所なさそう。 子供のエドワード3世の方が優秀そうだ、という事で、 諸侯の人気も高く、王妃によってエドワード2世は廃位させられてしまい、さらに暗殺されてしまう。
家臣により廃位されるというのはノルマン王朝以降では初の事。
14歳で即位。前王の廃位で活躍した皇太后の愛人のモーティマーが勢力を増すが逮捕して議会で処刑を決定、 皇太后は隠匿となった。
英仏百年戦争の始まりはこの王。
百年戦争が長引き、聖職諸侯が協力を渋るようになり国王と対立。 国王の強圧的な対応には諸侯も反感を抱き、マグナ・カルタの遵守と議会の招集を要求していき、 これをのむ事になる。
二院制の始まり
この頃から議会が二院制へとなっていく。 ヘンリ3世の時代から諸侯とは別に騎士や都市市民も参加するようになっていたが、 両者は財産の大きさや扱う問題の性質に違いがあった。 14世紀の半ばからは両者の集まりは別々に開かれるようになり、 それはやがて(公式には16世紀)貴族院(ハウスオブローズ)と庶民院(ハウスオブコモンズ)と名付けられる事になる。
5つの爵位の成立
貴族院に出席する貴族や聖職者の数も固定されていき、5つの爵位が成立する。
また、彼ら貴族は、親や先祖が議会に招集されていたら、身代を引き継いだ時に貴族院にも出席できる、 という権利も獲得した。貴族院議員の世襲化の始まり。
庶民院の拡充
騎士と都市の代表である市民(パーシェス)が構成員。 14世紀あたりから前者は27の州から2名ずつ選ばれる議員に、後者は80の都市から2名ずつ選ばれる議員となり、 各州は議員を選ぶ特権が認められて州選挙区(カウンティ)となっているく。 州選挙区における選挙権は年間40シリング以上の収入を生む土地または地代を持つ自由土地保有有権者とされ、 この条件あh19世紀前半まで400年も続く事となる。
都市選挙区(バラ)も時代が下がるにつれて整備されていくが、当初はイングランド南西部に集中していて、 北部の4州は数が少なかった。
エドワード3世の時に議会の日常語は公式に英語と定められた(ノルマン征服以来フランス語が使われていたがジョン王以降は貴族の間でも英語が日常的に使われるようになってきていた)。 公式文書は15世紀前半まではラテン語とともにフランス語が使われていたが、1489年からは草稿も英語となった(制定法はラテン語のまま)。
善良議会
長引く戦争と軍事情勢の悪化により課税が必要となった王は議会に依存せざるをえなくなり、 1376年4月に召集された議会は3年にわたる関税徴収を認める代わりに国王の政治に悪影響を及ぼしている愛妾アリスペラーズや悪しき取り巻きたち(侍従長ラティマー卿など)の追放、弾劾(インピーチメント)を要求した。
議会で悪臣が弾劾という刑事裁判手続きを取られた最初のケースで、この議会は人々から「善良議会(グッドパーラメント)」と呼ばれた。
エドワード3世くらいになるとだいぶ議会というものの存在感が増してきて、フランスと大きな違いとなっていて面白い。 どうして違うのか、みたいな事も本書で一節を費やして話されていて、後継者で揉めるイギリスと長子相続が続くカペー朝の違い、 そして支配地域が広いせいもあり諸侯に課税をする必要があるイギリスと王領地の収益で賄えるフランスの違いなどが述べられている。
フランスはフランス革命からナポレオン帝政という激動を経て議会とかの体制が形作られるが、 イギリスは13世紀くらいから普通に発展していって、それが王権と協力していって政治が進むという、 むしろこちらの方が議会の発展としては王道なのでは無いか、という気がする進歩の仕方をする。 諸侯や都市の代表から普通選挙への流れは自然でジャンプも少ないよな。
議会とか選挙を考えるには、イギリスの歴史は学びが多いな、と思った。 また、ジョン王より後はその辺の面白さがある。マチルダのあたりはかなりダルいが。
きっかけはスコットランドのロバート1世の急逝により5歳のデイヴィッド2世が即位した事でエドワード3世がほかの候補を擁立して内戦をしかけて、 デイヴィッド夫妻がフランスに亡命して「古き同盟」を重視するフィリップ6世が迎え入れて協力した事、 またフランドルでの羊毛交易を巡って対立していた事などが元で、 フィリップ6世がアキテーヌ公領とボンティユ伯領を没収すると宣言したのが始まり。 これにエドワード3世は反発してフランスの王位継承権を訴える反撃に出る。
フィリップ6世はヴァロワ家でカペー朝の分家であり、エドワード3世は女側ではあるが直系である。 カペー家が断絶してヴァロワ家が継いだ最初の王がフィリップ6世。
エドワード3世の時代に百年戦争が始まる。フランスとイギリスの間の対立はこれまでもたびたび起こっていたが、 教皇などの仲介で割と短期におさまっていた。 だがこの頃は教皇のアビニョン捕囚があり、フランス人の教皇で占められていた時代のため、仲介する人間が不在だった。
以前読んだ、【書籍】ヴァロワ朝の方が一冊まるまる百年戦争で詳しい(フランス視点だが)ので、そちらも見つつ読み進める。
1346年、エドワード3世とフィリップ6世がクレシーで激突。 エドワードの大勝。
フランスは未だに封建的な徴募を行っていたのに対し、イングランドは契約で雇用した兵士や隊長が小分隊ごとに柔軟性のある作戦を展開し圧倒。
ただしこの後エドワード3世はスコットランドやウェールズをおさえたりアイルランドの反乱を鎮圧したりと忙殺され、 さらにペストが大流行して休戦。この間にフィリップ6世は死去してジャン2世が後を継ぐ。
休戦があけたあとは1356年に黒太子(ブラックプリンス)と呼ばれたエドワード皇太子とジャン2世がポワティエで1356年に激突。 これも黒太子の圧勝。
ジャン2世は捕虜となったが、貴賓として歓待されているかのような待遇で、狩猟もすれば舞踏会も楽しむような日々。 黒太子もこれぞ騎士道ともてなす。
ブレティニ=カレー条約でジャン2世は莫大な身代金で釈放され、 アキテーヌ(ポワトゥーなどを含む)ボンティユ、カレー、ギーヌなどがイングランドに割譲されて、 そのかわりにエドワード3世はフランス王位継承権を放棄することが決まる。
この頃からフランスでは守る範囲が広くなってきたため、傭兵隊が増えてきていた。 そしてこのポワティエの戦いはこの時期で最大のものなので大量の傭兵隊が雇われ、 それが戦後に放出される事で盗賊化してフランス全土を荒らし回った。
黒太子は46歳で赤痢にかかり亡くなる。そのあとは追うようにエドワード3世も亡くなる。 そして黒太子の嫡男、エドワード3世の孫の、リチャード2世が即位する事になる。
リチャード2世はこの時10歳。
リチャード2世の初期にワット・タイラーの乱という農民反乱が起こる。和解する時に会見の場を持ち、 そこからリチャード2世は議会を軽視し寵臣政治に乗り出し、「悪しき取り巻きたち」と政治を行おうとする(宮廷派)。
それに議会は反発し、悪しき取り巻きたちを弾劾され、排除された。 この時の議会派には国王の叔父のグロースター公爵や従兄ダービー伯爵ヘンリなどが居た。
そののち貴族院と庶民院が対立を深めている隙にリチャード2世は権威を回復していき、 勢力を増やしていき、アイルランドへの遠征も行う。
王妃アンが子をなさずに亡くなると、フランス国王シャルル6世の娘のイザベルと再婚し、フランスと28年間の休戦協定が結ばれる。
そして宮廷クーデターを実行し改革派貴族を処刑、追放した。ダービー伯爵も国外追放処分となる。
そののちダービー伯爵の父のランカスター公爵ジョンが亡くなり、土地財産を継承するために王の許しを得たが、 途中で約束を反故にされて、追放を終身にすり替えられてしまう。
土地財産を保証される、というのが王の一番に期待される事なので、この件は地主貴族階級の支持を失う事につながる。 目を逸らそうとアイルランドにふたたび遠征した所、その隙をついてダービーが帰国して支持を集め、 慌てて帰国したリチャード2世は捕らえられて、ダービーは王の名のもとに議会を召集する。
この会議でリチャード2世の廃位とダービー伯爵ヘンリを5代前のヘンリ3世の後裔と正式に認めてヘンリ4世として即位する事になる。
血統的にはアンジュー(プランタジネット)王朝ではあるが、後世からランカスター王朝と呼ばれる事になる。
戦費のために課税を行おうとするヘンリ4世に対して議会は反発し、財政健全化のための国王評議会の改組などを迫る。ヘンリ4世はこれらをのみ、議会と協調路線で進めていった。
ウェールズやスコットランドの反乱をウェールズ大公のハリー王子が勝利しておさめて軍事的名声を獲得する。 財政的理由もあり対仏和平政策を望むヘンリ4世と、ブルゴーニュ公爵と組んで大陸への積極介入を望むハリー王子の間に対立が生まれる。
ヘンリ四世は発作で亡くなる。享年46歳。
熱心なキリスト教徒でイングランドに当時広まりつつあったロラード派を異端と弾圧した。
ブレティニ=カレー条約の賠償金支払いが滞っていた事などに、シャルル6世の娘との結婚に多額の持参金を要求したり、領土の割譲を迫ったりとフランスにたいして強硬策を迫る。 北フランスのアザンクールで兵の数は少なかったがフランス軍を打ち破り、多くの捕虜を得て凱旋。
その後もフランスとの戦いに連戦連勝で、シャルル6世の娘との結婚も正式に決まり、シャルル6世が亡くなったあとはヘンリ5世とその継承者がフランス王位を継ぐ、と約束までする。(トロワ条約)
だがヘンリ5世はフランスに滞在中に赤痢で亡くなってしまう。享年34歳。
生後9ヶ月にも満たないヘンリ6世が即位。そののちシャルル6世も亡くなり、生後10ヶ月にしてフランス国王アンリ2世にもなる。
幼い王を支えるのは、ヘンリ4世の三男ベドフォード公爵ジョンはフランス占領地域の統治を、 四男のグロースター公爵ハンフリは護国卿(ロードプロテクター)となった。 だがハンフリは他の王族や諸侯と折り合いが悪く衝突を繰り返す。
ジョンはオルレアン包囲戦などをやっていた(ジャンヌ・ダルクがシャルルと会見を行って包囲を突破して戴冠するというオルレアン包囲戦)。
そののちジョンが死去してハンフリの影響力も弱体化し、親政を開始する(1436年ころ)。 対仏和平工作を進めようとするがなかなかうまくいかない。
フランス王妃の姪のマルグリート(英語名マーガレット)と結婚する。気が強くて前に出過ぎるため諸侯に嫌われたとか。
ノルマンディの都ルーアンが陥落しガスコーニュ北部のカスティヨンでイングランド軍が大敗するなど、負けが続く。 この頃にサマセット公爵とヨーク公爵リチャードが台頭する。
マルグリートに子が生まれると摂政になろうと動く。 一方でヨーク公爵リチャードは護国卿に就任しマルグリートと対立する。
ヨーク家は、リチャードの父エドマンドがエドワード3世の子どもで、嫁もエドワード3世の係累。
赤バラを紋所とするヘンリ6世のランカスター家と白バラを紋所とするヨーク家の内乱が始まる。 バラ戦争と呼ばれる。
ヨーク公爵がヘンリ6世の捕獲に成功するが、その後ヨーク公爵は戦死してしまう。 ヨーク公爵の長男のエドワードがあとを継ぎ、王位に推戴されてエドワード4世を名乗る。
その後王位についた立役者であったウォーリック伯爵と対立するようになり、ウォーリック伯爵はランカスター家に寝返り、エドワード4世は劣勢に立たされ、亡命する。 ヘンリ6世が王に返り咲いたが、その後エドワード4世はウォーリック伯爵を打ち取りマーガレット王妃を捕獲する。 そのまま凱旋しヘンリ6世を処刑して正式にヨーク王朝が確立される事に。
バラ戦争を勝利したエドワード4世が正式に王となる。そしてブルゴーニュ公爵シャルルと組んでルイ11世と対立し、 最終的にピキニー条約で和平を結ぶ事になる。
この条約で以下が決まる。
このピキニー条約で100年戦争が終わる。
下層ジェントリの寡婦のエリザベス・ウッドヴィルと恋に落ちて結婚してしまう。 このウッドヴィルの一族とウォーリック伯爵の一門であるネヴィル家の対立が激しくなっていく。
この対立で担ぎ出された次弟のクラレンス公爵と仲が冷え切り、 次兄を牽制するべくさらに下の弟、グロウスター公爵リチャードにウォーリック伯爵の遺した広大な所領を与えたりした。 結果としてグロウスター公爵は勢力を増し、ネヴィル一派の頭領のような立場になっていく。
そしてエドワード4世は40代になると病に伏せるようになり、急死してしまう。
当時12歳だった子どもがエドワード5世として即位する。
12歳だという事と、実は私生児だという噂なども広まり、 エドワード5世はロンドン塔へ幽閉されてしまい、 護国卿グロウスター公爵がリチャード3世として即位する事になる。