イギリスの歴史を学ぼうと以下の新書をポチる。
【書籍】14歳から知る影響と連鎖の全世界史などを読んでいて、 そういえばイギリスってあんまり知らないよな、と思い、イギリスの歴史に関する本でも簡単に読もうかな、と探して見つけた本。
今はノルマン人のギョームとかの話(1066年くらい)で、なんか昔ノルマン人の本を読んだ時にこの辺やったなぁ、という感じ。忘れたが。 ここまでの話も読んだだけだとすぐ忘れちゃうね。 メモしておいた方が良かったかもしれないが、まぁそこまで真面目に学ぶ気がある訳でも無いので、サラサラ読んでサラサラ忘れようと思う。
アンリ2世くらいになると前に出てきた登場人物の後始末みたいなのが増えてきて、 スティーブン派とマティルダ派とかが出てきたりといろいろ分からなくなってきて、読み進めるのが辛くなってきた。
やはりノート作らないと駄目だな、と心をいれかえて、ノートを作る事にする。
イギリス北東部を支配していたイケニ族の女王。娘二人を凌辱された女王は、61年にロンディニウム(のちのロンドン)でローマ人を多数虐殺して反旗を翻す。 鎮圧されるが、ヴィクトリア女王がロンドンに銅像を作らせたとか。
ローマのあとにアングロ=サクソンがやってきて、現地住民を西や北に追い出し、西がウェールズ、北がスコットランドと呼ばれるようになる。 アングロ=サクソンの占拠した地域はイングランド(アングル人の土地の意)と呼ばれるようになる。
イングランドは首長が戦士団を率いて拠点を作り国が形成されていくが、これが7世紀初頭までに7つの大きな王国に集約されていく。
8世紀前半のマーシアの王で、この頃イングランドの中央部をまとめ、「マーシアの王だけでなく南イングランドのすべての者の王」を自称するようになるが、暗殺されてマーシアは内乱状態に。
マーシアの内乱を鎮めたのがエゼルバルドの従兄弟のオファ王(在位757〜796年)。
内乱を鎮めたあとにエセックス、サセックスの王家を滅ぼし、県ととイーストアングリアも王家を一時的に断絶に追い込む。 ウェセックスには宗主権を認めさせる。
ウェールズの国境地帯に防塁(ダイク)を次々と建設して圧力をかける。
イングランド初の本格的な法典を編纂し、通貨を造幣してこの通貨がイングランド全土で流通した。
マーシアの次はデーン人の襲来があり、その後ウェセックスの王朝が続く。
オファ王没後、830年代くらいからスカンジナビアからやってきた北ゲルマン系のデーン人が侵攻してくるようになった(バイキング)。 856年にはイングランドまでやってきて、イーストアングリア、ノーザンブリアなどを制圧してウェセックスまでたどり着いた。 この頃にウェセックスの王に即位したのがアルフレッド王。
アルフレッド王はデーン人を見習い移動には馬を使い、各地に砦(ブルフ)を築き、農民兵を募集して半年交代で軍務につける。 オファ王以後闘争が続いていたマーシアとも手を結び、デーン人を退ける事に成功。 マーシアのエゼルレッド王に娘のエゼルフレダを嫁がせた。
その後、ウェセックスのイネ王やオファ王の法典を踏襲しつつ独自の法も導入して新たな法典を編纂させた。
州制を整備。
ラテン語が得意で多くの作品を残した。
イングランド内ではウェセックスが優勢となる。
アルフレッドの孫のアゼルスタンでイングランドの統一を決定づける事に成功。
アゼルスタンはアルフレッドの嫡男のエドワードの長子。 また、先述のエゼルフレダの宮廷で育てられた。
エゼルフレダは夫の死後マーシアのレイディ(女王)として君臨した。アゼルスタンはこのエゼルフレダ(アルフレッドの娘、アゼルスタンの伯母)の宮廷で育てられた。
こうしてウェセックスとマーシア双方の正当な後継者として登場した。
イングランド北部でデーン人を撃退し、イングランド王となる。 賢人会議を設置。
州制を発展させ伯を置く体制に。
アゼルスタンの甥。イングランドが名実ともに統一王国に。キリスト教式の国王の戴冠式を開始。バースで行う(ステンドグラスが今も残るとか)。
エドガー王が亡くなると、長男のエドワードと異母弟の次男のエゼルレッドの派閥で抗争が生じ、エドワードの即位3年後にエドワードが暗殺されてエゼルレッドが王につく。 エゼルレッドは賢人会議への相談を怠り、王としての資質も欠けて、無思慮王と呼ばれるように。 有力者も徐々に王からの自立を図るようになる。
この頃にデーン人が再襲来し、同じく被害を受けたノルマンディー公リシャールと同名を結び、妹のエマと結婚。 ノルマンディーとの関係始まる。
エゼルレッドは少数の側近との話し合いだけでイングランド内のデーン人の皆殺しを決定。デンマーク王スヴェンが激怒、オクスフォードを焼き討ちにし巨額の銀貨を賠償金として払う。
エゼルレッドはノルマンディに亡命し、スヴェンを王として向かえる。ここでスヴェンが急死し、ハーラルがデンマーク王に、次男のカヌーとがイングランド王となる。 一方エゼルレッドはイングランドに帰還して王位を奪還、それに対してカヌートはデンマークから大軍を引き連れて上陸し、ロンドンを目指す。 この間にエゼルレッドが亡くなり(1016年)、その長子エドマンド2世がアシンドンの戦いでカヌートに敗れ、カヌートが全イングランドの王と認められる。
カヌートは征服者ではなく正当なイングランド王として有力者に認められる事を望み、 エドガー王の法を継承する事を宣言し、エゼルレッド王の未亡人のエマと結婚。
ところが1019年に兄が亡くなりデンマーク王も兼ねる事になり、イングランド不在が多くなる。
そこでイングランドをノーサンブリア、イーストアングリア、マーシア、ウェセックスの4つのアールダム(伯領)に分け、 それぞれ各伯(アール)に委託して統治させていく体制を確立。ここで地方の最有力貴族が伯となる。
カヌートの時代にマーシア伯レオフリック(奥方が有名なゴディバ)とウェセックス伯ゴドウィンが台頭する。特にゴドウィンが勢力を増す。 ゴドウィンはもともと地方豪族に過ぎなかったがカヌートにすり寄りウェセックス伯に納まる事に成功。
カヌートの死後王位継承を巡る混乱が生じ、そこにエゼルレッド王の遺児アルフレッドを暗殺させて、 アルフレッドの弟エドワードを擁立して彼を王につける。
エドワードは熱心なキリスト教徒であり、エドワード証聖王と呼ばれるように。彼はエゼルレッドの子。
エドワードは即位までの25年間をノルマンディで過ごし、日常会話はフランス語、政治文化もフランス流に馴染み、 政治や宗教の有力者をノルマン人が占めるようになり、イングランドの有力貴族が反発を示すように。 その反対派の筆頭がゴドウィン。
ゴドウィン達はこの頃には「強すぎる家臣たち(オーバーマイティーオブジェクツ)」と呼ばれるようになる。
抗争の結果一時的にゴドウィンを国外追放したりもしたが、最終的にはゴドウィンが優勢となりエドワードは傀儡に、ノルマン人の側近も追い出される。 ゴドウィンが急死したあとは次男のハロルドがウェセックス伯としてあとを継ぎ、同様に権力基盤を固める。
証聖王はノルマンディ公ギョームを後継者に指定した、とされるが、証拠は無い。 1065年ころにハロルドが使者としてギョームに派遣され、後継者に指名したとか。
証聖王の死後は賢人会議ではウェセックス伯ハロルドが国王に選出された(以後ハロルド2世と呼ばれるように)。 これに異議を唱えたのがノルウェー王ハーラルとノルマンディ公ギョーム。 この三人による三つ巴の戦いに。
ハロルドはハーラル軍を撃破しハーラルも戦死。200年に渡るデーン人の襲来に幕を閉じる。
その後ギョームとハロルドはヘイスティングスの戦いでギョームが勝ち、ハロルド二世は戦死。
ギョームは英語読みのウィリアム一世として王位につく。以後ノルマン王朝。
戴冠式を行ったあと、ウェールズ、スコットランドの反乱を鎮圧し、征服を完成させる。
土地の所有や教会の要職はノルマン人が占めて、公用語はフランス語にされた。
土地台帳の作成を命じ、それはドュームズデイブックと後に名付けられた。
イングランド各地に防衛のための白を築く。有名なのがロンドン塔とウィンザー城。
ウィリアム一世の子供は以下のような相続予定だった。
このロベールは何度か他の勢力と結びウィリアム一世に反抗してきた。
ギョームはイングランドを継ぎウィリアム2世となったが、ロベールがこれに横槍を入れ、ノルマン系貴族もノルマンディーとイングランドを同じ人が治める事を望みロベールになびき、反乱を幾度も起こす。
けれど十字軍が結成されロベールも参加する事になり、 ノルマンディーをウィリアム2世に預ける事にする。
ロベールが十字軍から帰って来る頃にウィリアム2世は狩りに出かけて事故死してしまう。
ウィリアム2世の事故死に素早く反応したのが弟のアンリで、戴冠式を挙げてヘンリ1世となる。
権力基盤を固めるためにスコットランド王マルコム3世の娘、イーディスと結婚する。 イーディスは、エドワード証聖王の甥でノルマン征服後も王位継承権を訴えていたエドガーアゼリングの姪。
十字軍から帰ってきたロベールが後を継ぐ約束をしていたので怒るが、1101年に年3000マルク(2000ポンド)を払う事で和解する。 その後体制を整え1106年9月、タンシュブレーの戦いでヘンリ1世がロベールに勝利しノルマンディとイングランドを両方統治する事になる。
財務、尚書部、巡回裁判などの組織を整備、拡充した。
フランス王ルイ6世はアングロ=ノルマン王国の拡大を恐れて、ヘンリ一世をノルマンディ公には認めていなく、 ロベールの息子のギョームクリフトを擁立しようと画策してヘンリ一世と対立していた。
ルイ6世とヘンリ一世はどちらもアンジュー伯やフランドル伯を味方につけようと暗躍した。 この時にヘンリ一世の長子ウィリアムとアンジュー伯の長女マチルダを結婚させる。(これは娘のマチルダとは別人)
最終的にヘンリ一世はルイ6世-ギュームクリフト軍をブレミュールの戦いで退け、息子のウィリアムのオマージュを認めてウィリアムが正式なノルマンディの後継者となる。
ただしその後ウィリアムは20歳にもならずに船の事故で亡くなる。
ヘンリ1世にはマチルダという娘が残っていた。 神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ5世と結婚していたが世継ぎを残すことなく寡婦となり、これをヘンリ一世がイギリスに呼び戻し、自身の後継者として有力貴族達に認めさせる。
世継ぎを残すためにアンジュー伯ジョフロワと再婚。ヘンリという息子を授かる(祖父のヘンリ一世と同じ名前)。
だが、ヘンリ一世が亡くなった時に、先に動いたのはモルタンブーローニュ伯のエティエンヌだった。彼の母アデラがヘンリ一世の姉で、イングランドをしばしば訪れて親しまれていた。 こうして素早く動いてエティエンヌの王位は公式に認められて、名前をスティーブンに改名する。 なお、スティーブンの嫁もマチルダという名前なので、皇妃の方と区別して王妃マチルダと書く事にする。
皇妃マチルダは気性も激しく、アンジュー伯はノルマンディとの対立も長かったのでアンジュー伯の勢力を嫌っていた貴族たちはスティーブンを支持したとか。
こうしてスティーブンがイングランドの王位につくが、皇妃マチルダは当然これに意義を唱えて対立していく。 両者は争いを続けて、皇妃マチルダが勝利するが、王妃マチルダが抵抗を続けて長い内戦が続く事になる。 この内乱はヘンリ1世の死から数えて18年続く事になる。
最終的には皇妃マチルダとジョフロワの息子アンリが王位を次ぐ事となる。
皇妃マチルダの息子アンリは、父のジョフロワからノルマンディを譲り渡され、さらにジョフロワ没後にはアンジュー伯も継承する事になる。 このアンリが後のヘンリ2世である。
さらにルイ7世と離婚したアリエノールと結婚する事になり、彼女はアキテーヌ公領の相続人なので、アンリはノルマンディ、アンジュー、アキテーヌというフランスの広大な領地を有する領主になってしまう。
この後スティーブンは後継者の息子を突然死で失い、ウェストミンスター条約が結ばれる。ここで、
という事が決まった。これを持って内乱は終結する。 この翌年にスティーブンは没する。
イングランドの王位を継いでヘンリ2世となる。
ヘンリ2世からプランタジネット朝と呼ばれる王朝が始まる。 アンジュー家の家紋のエニシダから来た名前だとか。
イングランドの領土回復を目指す。ウェールズはオウェイン-グヴィネッズがプリンス・オブ・ウェールズを名乗ってヘンリ2世に対抗。
カンタベリー司教のケベットと教会裁判権を巡って対立、ケベットを暗殺してしまうが教皇アレクサンドル3世が圧力をかけて教会裁判権へは譲歩する事で決着する。
また治世の半分くらいはフランス側で過ごさなくてはいけないほど、フランス側の領土の維持にも困難があった。 子どもたちがフランス王フィリップ2世と組んでことあるごとに揉め事を起こした。
若王(ヘンリ2世の次男ヘンリ)が亡くなり、三男のリチャードがアンジュー帝国を引き継ぐ。リチャード一世となる。
リチャード1世はエルサレム奪還を重視して第三回十字軍への参加を表明。その帰りに捉えられて神聖ローマ帝国に引き渡されて10万ポンドにのぼる巨額の賠償金を払う事になる。 その後フィリップ2世が占領していた地の奪還を目指してフランス側にわたり、ほとんどの土地を奪還する事に成功したがそこでの傷が元で亡くなってしまう。
リチャード1世は嫡子が居なかったので、後継者候補は2つに割れた。 リチャードの末の弟のジョンと、上の弟ジェフリの遺児のアーサー。血統的にはアーサーだがまだ当時12歳。
アーサーはアンジュー、メーヌ、トゥレーヌといった諸侯が支持し、 イングランドとノルマンディの諸侯はジョンを推す。 結果としてはジョンが戴冠する。
アーサーはフィリップ2世(尊厳王、オーギュスト)の助けを借りて蜂起するがジョン軍に敗れ逮捕され、のちに遺体で発見される(殺されたとか自殺したとか言われている)。
その後フィリップ2世と対立。 フィリップ2世がノルマンディ、アンジュー、メーヌ、トゥレーヌ、ポワトゥーへと侵攻する。
この頃にはノルマンディとイングランドの両方を所領する諸侯も減り、ノルマンディ周辺でもノルマンディ公とフランス国王の両方に忠誠を示す者も増えてきていて、 あっさりとフランスの軍門にくだる。
その後イノケンティウス3世とカンタベリーの大司教の任命で揉めて対立、破門されて政務停止を宣言される。 この当時は公文書はラテン語で行政長官や尚書部長官などはほとんどが高位聖職者で占められていたため、 ノルマンディ奪還に動く事が出来ずに、やがてイノケンティウスに屈服し、和解。(1213年)
各国がこのような教会からの政治支配から脱却していくのは大学が各地に作られて世俗の人がラテン語を学ぶようになってからとの事。 12世紀までにはオックスフォード、13世紀初頭にはケンブリッジに大学が作られる。
イノケンティウス3世と和解したあとに大陸の領土の奪還に動いたが、フィリップ2世に敗れて逃げ帰ってくる。 さらに課税を増やして再チャレンジをしようとした所、諸侯から反発を受ける。諸侯はエドワード証聖王の法やヘンリ1世の戴冠憲章といった粗法を守る事を要求した。 マグナ・カルタの原型である。
この頃には諸侯も英語を喋るようになり、大陸にはそれほど興味を持たなくなっていた一方、 ジョン王とその取り巻きはフランス語を話し、イギリスにも特に血縁なども無いよそ者という立場だった。
ジョン王は最初これを拒否して内戦になったが、劣勢になった所でジョン王がこれを受け入れる事になる。
その後にジョン王はこれを破棄してふたたび内戦になるも、その途中でジョン王はなくなる。 その後も内戦は続き、国王軍が勝利をおさめる。
マグナ・カルタでは、王による重税や財政的搾取を戒め、諸侯らの助言のない軍役代納金や援助金を禁止すべきと訴え、 課税が議論される場合には諸侯はもとより、中小領主(騎士)や都市の代表らも広く意見を徴する事も要請された。
内戦でジョン王が亡くなり即位したのは、ジョン王の子供で9歳で即位したヘンリ3世。
諸侯軍と和平を結び、以後は「諸侯大会議」で重要事項を決めていく事で同意する。 この会議は即位からの10年で25回も行われた。
この中でマグナ・カルタなどが再確認される見返りに、王軍の遠征費や借財返済のために1/15税が課される事が決まったりした。
諸侯大会議はパーラメントと呼ばれて、のちの議会の原型となる。
ヘンリ3世からはイギリスに滞在する割合が大きく増え、かつてウェセックスとノルマンディを結ぶ要衝として栄えたウィンチェスターは重要度を失い、 ロンドン対岸のウェストミンスターが政治的拠点となっていく。
25歳になって親政を始めてから、大陸への領土の奪還を目指して課税をしようとするも諸侯に反対され、対立する事になる。
さらにイノケンティウス4世から次男のエドマンをシチリア国王に、と打診され、これを受ける。 だがこれには現在支配している神聖ローマ皇帝の私生児のマンフレットとの抗争を行う必要があり、それまでに使った巨額の戦費も肩代わりする事を求められる。 この課税に諸侯は反対して対立を深める。
これに反対した諸侯はオックスフォード条款、ウェストミンスター条款などが作成され、諸侯による政策決定の関与、公正な裁判、法改正、地方行政の進め方についての透明性などが求められた。 この指導者の一人が国王の妹エレノアの夫、レスター伯爵のシモン・ド・モンフォール。
これ以後、シモン・ド・モンフォールの議会、と言われる議会が開かれるようになり、国王と改革派諸侯との一進一退のやりとりが行われるようになる。
なお、ヘンリ3世はルイ9世と、ノルマンディやアンジューなどに対する権利を正式に放棄する見返りにアキテーヌ公と認めてガスコーニュの領有を公式に承認する、というパリ条約が批准される。
議会を重視。この時代の議会にはオックスフォードやケンブリッジで学んだ法律家などが参入するようになる。 また、議会の他に国王評議会(キングス・カウンシル)という行政府も重用するようになった。 これは尚書部長官や財務府長官など、これまでに定着していた官職者が構成員。
この時期(14世紀初頭)はまだ農村社会で経済の主力は農業や牧羊業。
治世後半ではフランスとの戦争の戦費のためなどの課税で議会と揉める。
ウェールズの反乱の鎮圧でウェールズ大公サウェリンを殺害し、 プリンスには赤子の皇太子をつける事になり、以後王子がプリンス・オブ・ウェールズになる習慣が確立される。
エドワード一世の時に決まったフランス王フィリップ4世の娘と結婚する。 外国の取り巻きとかをえらく重用したりして諸侯と対立したり、スコットランドとの戦争に負けたりと割といい所なさそう。 子供のエドワード3世の方が優秀そうだ、という事で、 諸侯の人気も高く、王妃によってエドワード2世は廃位させられてしまい、さらに暗殺されてしまう。
家臣により廃位されるというのはノルマン王朝以降では初の事。
14歳で即位。前王の廃位で活躍した皇太后の愛人のモーティマーが勢力を増すが逮捕して議会で処刑を決定、 皇太后は隠匿となった。
英仏百年戦争の始まりはこの王。
百年戦争が長引き、聖職諸侯が協力を渋るようになり国王と対立。 国王の強圧的な対応には諸侯も反感を抱き、マグナ・カルタの遵守と議会の招集を要求していき、 これをのむ事になる。
二院制の始まり
この頃から議会が二院制へとなっていく。 ヘンリ3世の時代から諸侯とは別に騎士や都市市民も参加するようになっていたが、 両者は財産の大きさや扱う問題の性質に違いがあった。 14世紀の半ばからは両者の集まりは別々に開かれるようになり、 それはやがて(公式には16世紀)貴族院(ハウスオブローズ)と庶民院(ハウスオブコモンズ)と名付けられる事になる。
5つの爵位の成立
貴族院に出席する貴族や聖職者の数も固定されていき、5つの爵位が成立する。
また、彼ら貴族は、親や先祖が議会に招集されていたら、身代を引き継いだ時に貴族院にも出席できる、 という権利も獲得した。貴族院議員の世襲化の始まり。