インターネットでは、最近は個人の発言は自分の場所で行うのがメインになっているように思う。

昔は掲示板とホームページがあって、掲示板のようなものは共通の場所で何かを話し合って、ホームページとかで個人の場として何かを話していたと思うのだけれど、 前者がだいぶ減ってきている。今でもissueとかではそういうコミュニケーションがあるが、 そういうのは一部のプログラマしかしてない事に思う。

自分の場で自分の好きなように、良識の範囲内なら何を言っても良い、という安心感が、発言を促す結果、更新が多くなって、そうしたサービスに人が集まる、という事なんじゃないか。 自由に発言出来るのは良い事のようにも思うし、皆が発言する方がいい気はする。

ただ、インターネットのサービスが、いつも自分の場で発言する、という事を強めている結果、自分の無知さに対する謙虚さを持つのが難しくなっているように思う。 最近、ブランシャールの【書籍】21世紀の財政政策を読んでいて、 その感想を検索していると、ちょくちょくMMT信者みたいなのに引っかかったりして思った事。 だけれどそれに限らず、最近のインターネット全般にある欠点のようなものに思う。

例えば円安とか金利とか物価上昇などに関しては何かを語るには多くの知識を要求される。 そして多くの人はそんな知識は持ち合わせていない。 けれどそれらの事は自分の身近な事であり、自分が被害を受けたりもする。 そういう時に、自分の問題を語りつつも大きな事は分からない、というようなバランス感覚が本来は求められると思うのだけれど、 自分の場で自分が何かを語るのにはそうした分からない、についての配慮はあまり必要としないので、 強すぎる事を言ってしまいがちに思う。

自分はコンピュータ、数学、経済、生物に関してはかなりの知識を有していると言えると思うし、それゆえにそうした話や態度を見た時に、良くない事だ、と認識出来る。 歴史もまぁ普通の水準よりは詳しいかもしれない。 だが、それ以外の分野に関しては自分はそんなに詳しい訳では無いので、そうした分野では他人の無知はおろか、自分の無知もおそらく認識出来ていないように思う。 例えばCovid-19について、ワクチンとかマスクとかについてわかる事はほとんど無い。 明らかにおかしい事を言っているのを見かけてそれがおかしいとわかる事はあっても、自分が明らかにおかしい事を言っていてもたぶん気づかない。

一般市民が全ての事についてちゃんとした専門知識を持つのは不可能だし、だから持つべきという事も無いだろうう。 自分がCovid-19について何も分からないように、他の人が経済について何も分からなくても問題は無いと思うし、 分からなくても自分に影響がある事について何かを語るのも当然すべき事なのだろう。 だが、分からない事についてもっと謙虚さを持って語る方がいいよなぁ、という気はしている。 もうちょっと謙虚さを促すような仕組みがあった方がいいんじゃないか?

以前は掲示板とかに書く時には公共の場に書く事として、ある程度の配慮や緊張感があり、それが自分の無知に対してある程度の謙虚さをもたせる効果があったと思う。ようするに恥をかく事で反省する、というような。 でも自分の場で間違った事を言っても、消して終わりだ。訂正している人はほとんど見た事が無いし、ましてや反省する事はほとんど無いだろう。 自分の考えがまとめてどこかにあって、自分の過去の誤りが誰の目にも(そして自分にも)たちどころに明らか、という事もない。 それが認知バイアスを強化して、いつも自分が正しいように思える、という事を強化してしまっている。

例えばチャットとかで友人たちのグループで話す時には、やはり自分より詳しい人と話す時に謙虚な態度で話す事にはなる。 それは相手を知っていて、相手の方が詳しい事を知っていて、その人と会話をする場だからだ。 同じグループには、あるトピックでは自分より詳しい人が居て、でも他のトピックでは自分の方が詳しい。そうして詳しくない事への謙虚さが発生する。

でもSNSで自分の場で話す時には、自分より詳しい人に向けて話しかける訳では無い。 少なくとも発言者の意図としては、自分より詳しい人に向けて何かを話している訳では無い。(少数の質問などを除く)すべての発言が自分より詳しくない人向けと言える。 同じ人に向けて話す訳ではないので、ある要素では自分より詳しいが他の要素では自分の方が詳しい、という事が無い。 だから無知に対する謙虚さを発揮した方が良いと思う機会が、すごく少ないように見える。

かつてのいちごBBSのリフレ派だって今のMMT信者と似たようなものだった気はする。けれど、例えばザモデル氏が降臨した時に、何も分からずに噛み付いた人たちはいたけれど、 しばらくやり取りを続けたあとにはある程度相手の言い分は認めて反省もしていた。 ある時に竹中平蔵氏を叩いていた人が、成長に関しては叩いていた側が間違いだった時に、ドラ氏になだめられて反省する、なんて事も見かけた事がある。 ああいった事というのは現代では起こりにくくなっているようにも思う。 敵が来たらブロックするだけだ。

まぁインターネットには限らないのかもしれない。別に昔から老人が酒のんでテレビの前で政治に物申している時には、自分の無知に対する謙虚さなんて持ってなかった気もする。 青空文庫で夜明け前を見たら、全く経済分かってないのにいろいろ語っている様子は見て取れる。

発言を促すような環境を作るのは正しい気がするんだよな。それが自分の場という安心感から来ているのなら、それはそれでいいような気もするんだが。 だが自分の無知を認めて謙虚になるようなメカニズムももうちょっと入っている方がいいと思うんだけどなぁ。 それは発言を自制する側の圧力にはなるのだろうけれど、いい感じのバランスでどうにか出来んものか。

仕組みはおいといて自分個人の話に移ると、もっと無知さに謙虚である方が良いと思っているので、自分の発言もそうしたものにしていきたい、と思う。 どうしたらいいだろうか? 今回はブランシャールの本を読んでそうした事を考えた。やはりこうしたしっかりした本を読むのは自分の無知を自覚するのに良いよな。 自分の専門外でもこうしたしっかりした本を読んだりコースを取ったりする、というのは、有効な気がする。 【書籍】大いなる謎、平清盛とか【書籍】人類と気候の10万年史とかは、 全然知らんな、という気分を高めて謙虚さを思い出させてくれるものであったように思う。

あとは発言の場として、固定の人と話す場というのがあるといいのかもしれないな。 不特定多数でいつも都合の良い相手を選んでしまうのでは無くて、決まった相手と話す仕組みがあるといいかもしれない。

また、自分の考えはある程度まとまった形で残して、あとから見て誤りがあればそれが自身の目にも明確になるようにするのが良いか。 これはSNSやブログでも「XXX月の雑記」みたいなのに散らばらせてしまわずに、 ちゃんと独立したブログのポストなどに考えをまとめて書く、で良い気がする。

他人に対して何か言える事はあるだろうか?理想的には改めてほしいと思うような発言を見かける事はあるけれど、それにリプライして何かを言うのは全く意味の無い事に思う。 とりあえず自分の行いを振り返ってよしとしておくくらいがいいのかもしれないが、 たまにこうやってブログなどでそうした考えを発信するのも意味はあるかもしれない。 まぁ出来る事なんてそのくらいか。

社会的な事を思うと、各自が自分の詳しい分野を作ってそこでの健全な発言を心がけて、 それ以外には謙虚な態度で望む事で、 それぞれの話題にそれぞれ一定の詳しい人がいるような感じになっていると、 健全な環境になるのかな、と思う。 皆が全てを知るのは無理なので、各自が自分が興味ある事を知ってそれ以外は諦める事で、 準専門分野のようなものを持つ集団たちとして一般の人たちが構成されるといいような気もする。 すべてを知るのは無理なので、この分野は知っておきたい事を知っている、というのがそれぞれの人にある、という状態を目指すのがいいのか。

やはりまずは自分の行いだよなぁ。自分の無知に対して謙虚さをもう少し持ちたい。