30代の十年間を思うと、効率が悪くて困った、という事はあまりなくて、そもそもやってる事がいまいちだった、とかの方が多い気がする。

そもそもに人生とはそういうものでは無いか?

例えば「今日何やろっかな〜」と毎朝ぼけーっと考えたりする。 この時間は、毎日やることを決めてしまっていれば無くす事が出来る。 効率を優先するなら、何かやってる事が終わったり変更が必要になる時だけ考えて、それ以外はルーチン化してやる方が良い。

そもそもに考える、というのは、実際何かをやってるのか曖昧だ。 ぼけーっとしてるだけだし、ずーっと何かを言語化して推論したりしてる訳でも無い。 だからやってる時間に対するアウトプットの効率、という事を考えると、凄く無駄な事にも見える。

だが、この手の決断は、何が正しいか分からない上に、決断の違いは凄く大きい。 そして、たくさん考えても結果の期待値が変わらない、とは言い切れない気がする。 なので無駄に見えるが、実は割と重要なんじゃないか?

しかも、今はその結果を20年とか積み重ねてしまったあとだ。 その結果を既に体験している。 その体験をもとに考えると、効率よりもやる事の方向性の方が長い目で見たら大切だよなぁ、と思う。

何より、この考えている、その時間そのものが、経験値として大切な気もしている。 少なくともこの時間より、より有意義なやることなんてそんなには無いんじゃないかなぁ。少なくとも自分の一日の中には。

結局は答えなんて出ないのだが、それでも「今日何しよっかな〜、そもそも俺は何をしたもんか?うーむ。」とかやってる時間を、何度も何度も経験していくうちに、アイデンティティという物が深まっていくというか、自分の考えが出来ていく気もする。

という事で、毎日、朝飯食べたあとなどに、「今日何しよっかな〜」とゴロゴロしながら考える時間は意外と大切なんじゃないか、という気がした。

また、ここ数ヶ月は今後の身の振り方でも考えるかなぁ、と思ってる。何やったもんかなー、とたまにぼけーっと考えてるが、この、少し長期のスパンの「何やったもんかな〜」も結構大切な事なんじゃないか。 仕事とか始めるとそういう事あんま考えかくなるので、仕事とかを安易に探さずにもっと根本的な事を考えていく方がいいんじゃないかなぁ。

なお、別にぼけーっと考えても思考が進む訳でも無いが、変に書き出したりとかするのもいまいちと思う。 効率的に間違った答えにたどり着いても仕方ないので。 正解とかもそもそも定義されない物だと思うが。
その日見た物、天気、風景、出来事、なんかそういうものと相互作用しつつちょっとずつ進める方が良い類の事なんじゃないかなぁ。根拠は無いが、そんな気がする。

なお、子育てとかしてる人は別なんだろうね。 彼らは凄く忙しい毎日から何かを進める為の時間を捻出したりしてるっぽいので。 これはそういう話じゃなくて、もっと一日の全ての時間が自分に自由な人の話。