時間を置いて後からニュースを知る効用
時間を置いて後からニュースを知る効用
SNSやニュースの問題点の多くは、リアルタイムでは無く後からまとめて知る事で緩和する事が出来る。
すぐに知らないといけないニュースとそうでないニュース
緊急で知る必要のある事はリアルタイムで情報を仕入れた方がいい。 例えば初期のCovid-19などは緊急で知るべき事も多かっただろう。 緊急事態宣言などを知らずに普段通りに行動すれば、意図せず政府の期待に反した行動を取る事にもなる。 でもそうした事はほとんど無い。
例えば一週間遅延出来ない情報というのは、自分の明日に影響のある事がほとんどだろう。 それは現在のほとんど外に出ない生活では、自分の歩いていける範囲、市内の情報やせいぜい県内の情報で十分だろう。 だから今横浜の端に住んでいる自分としては、東京のニュースは一週間遅らせて知って問題のある事は無い。 どんなに大きな悲劇でも残酷な事でも、別に一週間後に知ったから問題があるという事はほとんど無い。
例えば来月一ヶ月くらい沖縄に行こう、と思ったとする。 そうすると沖縄についてのニュースや飛行機のニュースなどは、ある程度は知っておいた方がいい。 そうしたニュースは毎日知る必要は無いけれど、一ヶ月遅れで知るのは望ましく無いだろう。 そういう時には一週間おくれくらいで東京や目的地周辺、場合によっては極東情勢くらいは知っておく方が良いかもしれない。
海外のニュースは、ほとんどが半年後に知っても問題無い。 実際にアクションを起こさないいかなる海外の悲劇も、リアルタイムに知る必要は無い。 特に行く予定がある地域に直接影響を与えないものは、半年遅れくらいで問題になる事は無いだろう。
遅らせる期間の長さによる分類
一週間遅らせれば、ほとんどのSNS的な問題点を回避する事が出来る。 インターネットでニュースを見るのに死守したい最低ラインが一週間遅らせて知る、という事に思う。 一週間遅らせれば、流れてきたものについ反応してしまうような事は全て避ける事が出来る。
半年遅らせれば、多くの情報はそれを提供する側では無く自分たちが、何をどれだけ必要としてるかを判断して受け取る事が出来る。 また、同じ事を繰り返して見る事もあまりなくなるので、効率も良い。
3年遅らせる事が出来れば、経緯や結果といった時間軸にまつわる情報を知る事が出来る。 それらの情報は非常に多くの事を伝えてくれるし、予想と違って外れる事は無いので情報としての価値もずっと高い。 また、リアルタイムに新しいニュースばかりを見ているとそうした情報は得られないので、 3年遅らせるのは煽動やバイアスを避けて無駄を省いて効率的なだけでなく、時間を置かないと得られないより重要な情報を得る事も出来る。 多くの重要な問題は、時間を遅らせてから知る方がむしろ望ましいのはそうした理由にもよる。
遅らせて知る罪悪感を克服する
凄く悲惨なニュースを知らないのは悪い事のようにも思う。 むしろ悪い事と思うような事を選んでニュースは流しているとも言える。 少数派が力で何かを失おうとしている時に、彼らに協力しなくてもいいのか。 一人一人の力は弱くても、皆が関心を持てば、理不尽な暴力に立ち向かえる事もあるのでは無いか。
こうした考えというのは、悲惨なニュースに張り付いていないといけないかのような強迫観念を与える所だろう。
こうした事を考えるにあたり、幾つか自問してみるのは有効に思う。
- これまで自分が張り付いてRTしたもので、皆のRTが力となってポジティブに何かが進展した事はどれくらいあるか?
- 自分はどちらかに肩入れするほどその問題を知っているか?巧妙な切り取られ方をした結果、本来の自分の考えと違う勢力を持ち上げてしまうリスクを犯していないか?
- 絵師炎上問題の時には多くの実態を知らない人がRTをする事で善良な人を不当に追い詰めていた。同様の事はかなり頻繁に起きていると思われるが、自分だけはそれに加担していないのだろうか?
- RTするだけがそれほど有効か?一般にRTが大量にあるだけというのはほとんどそれ以後のアクションに結びつかない事はRTはされてもさっぱりダウンロードされない仕事や趣味でソフトウェアを開発していれば知っていると思うが、それと同じ事になっていないか?本当にただRTするだけで大した労力を掛けずとも何か大きな圧力に立ち向かえると思うのか?
- そもそも重要な問題に取り組むならもっと労力を掛けるべきなのでは無いか?より大きな労力を必要とするなら、もっと自分が注力する問題を絞った方がいいのでは無いか?
- 自分のRTはどのくらい遅れたら影響が出ると思うか?長期のコミットメントが必要な問題ならむしろ遅れた方がいい事もある。一週間遅れる事が致命的となるような事はほとんど無いと思う。一ヶ月も多くの問題にとっては問題にならない。
- 自分の一日の幸せを損なっていないか?それを過小評価していないか?
- RTで一人の人間が幸せになるなら大した成果と思う。それが自分であっても、大した成果では無いか。
- 自分の身近な人に憂鬱なニュースを回覧させる事で周りの人の一日を少し憂鬱にする事を軽く見すぎてはいないか。毎日を憂鬱な物にする事に加担している事を過小評価していないか。
- 周囲に毎日をニュースなどの結果憂鬱に過ごしている人はいないか。その人に自分のRTは目に入ってしまってはいないか。
- 自分にやれる事を過大評価していないか?全ての問題を知る事は明らかに一人の人間の出来る事を越えている。全ての問題を良い方向に導くのも明らかに一人の人間の出来る事を越えている。
- 自分はどれだけ社会の問題に人生を使いたいと思っているのか。自分にやれる事は自分が幸せな一日を送れる範囲が適切では無いか。その範囲に収まるように見るべき問題をちゃんと制限しているか。
どのくらいニュースに張り付いている事がポジティブな結果を社会に与えていると思うかは人によって異なるだろうから、 自分の考え方にとって適切なバランスを各自が見つけていくのが良いと思う。 ただニュースやSNSは人間の感情的な反応に過度に最適化されていて自分もそれからは自由では無いはずなので、 何も考えずに接するのが自分の考えを適切に反映したバランスになる訳では無い事は留意するべき。 上記のような事を自問してみてバランスを考えてみるのは良い事では無いか。