コンピューティングの将来の事はもう何も分からないと思う昨今の状況を踏まえて、 それでは今、自分は何をすべきだろうか?というような事を最近は良く考えているように思う。

以前、友人がLLMを会社の日々の業務を改善する為どう活かすのか、 という事を日々工夫している、という話をしていた事があった。 それを聞いた時、自分が今やるべきはそういう事では無いのではないか、 という事を強く思った。

これまではプログラムに関わる事であれば、 何が後の役に立つのかはわからんものなので、まぁなんでもやってみてもいいんじゃないか、 という思いが結構あった。 だが、今はもっと根本的な所でやるべき事を問われている気がする。

過渡期ゆえのLLMの補助、みたいな仕事の意義。 Coding Agentを使ったプログラムをしていると、 今やっている作業は現在のLLMの機能が不足しているから必要なのであって、 もう少し賢くなったら不要だな、と思う事がたくさんある。 そういう作業を今やる意義はあるのか?という気分には良くなる。

ただ、過渡期ゆえの作業を除外していくと、今とのつながりも薄れてしまい、 今やるべき事から離れてしまう気もする。遠い将来にどうなっているかは、 その頃には自分はもう老人で別の問題に向きあっているであろう事を思えば、あまり考える意義は無い。

自分がプログラムを始めたころ、プログラムなんてすぐにAIが全部やるようになるので学ぶのは無駄だ、という主張はそれなりにあった。 だがふりかえれば、AIが全部やるようになるのは随分と長い時間がかかっていて、 その間に達成出来た多くの事を思えば、AIが全部やる事を根拠にプログラムをやらなかったら大きく判断を間違えていたと思う。 今同じ主張はだいぶ意味合いが違って聞こえるが、30年前のその主張は少なくとも、 人は長期では皆死んでいる、という奴に思える。

自分の人生の長さと比較して長期な予想は、あまり自分の行動には関係が無い。 今の感じとしては、50代をどう生きるか、程度のスコープが主な関心で、 60代より先は今考えてもなぁ、と思う。 そうであるなら、向こう15年くらいの範囲で意味のある事を考えていきたい。 3年で無価値になる事はあまりやりたくないが、7年で無価値になる事ならやってもいい気はする。 どれだけ下積みに時間が掛かるか、という要素はあるが。 今から7年後に無価値になるものを作るのはいいけれど、 今から大学院に行って7年後に無価値になる事を研究したくは無いな。

3年後には無価値にならない、というのは、どのくらいのラインだろう? たとえば今のMacBook AirではGemmaの大きめのモデルは動かない。次の世代でもたぶん動かない。 自分の手元に今のGeminiと同じくらいのが無料で好きなだけ使える感じになるのは、 3年では達成されそうも無いので、まだ無い前提でしか意味の無い事をやっていってもいい気はする。 肌感覚的にはそのくらいの事は今やっていくべき事に入るのだろう。

いつの時代でも過渡期ゆえの作業というのはあったし、 過渡期にそれをやる事がとても大切、という事もたくさんあった。 むしろ重要な仕事はだいたい何かの過渡期であった。 だから過渡期ゆえに必要だ、という事は、やらなくても良い事という訳では無い。

そもそもにこれまでも、ほぼ全てのプログラムは、過渡期だからこそやる必要のあったものとも言える。 ただ、これまではそれがそこまであからさまでは無かったので、哲学的に考える時にしか問題にならなかった。 今は目の前に明らかな形でその事実が感じられるので、 よりやる意義をいつも面前につきつけられている気がしてくる。

過渡期だから必要である事が明白である事は、 その達成する事がより問われる気がする。 会社の日々の業務を改善する、というのが全くやるべき事に思えないのは、 会社の日々の業務、という事にたいしてどういう意義を感じるか、という事なのだろう。 もちろん日々会社で働いている人は、その会社の業務にある程度は意義を感じているだろう。 だが自分のやりたい事はそういう事では無いよなぁ、という気はする。

日々の業務の改善ではなく、その会社のアウトプットが何なのか、という事が自分には重要なんだろう。 中間の所の効率化というのはいかにも価値を感じられない。 これは以前はそうではなかったのだが、 この仕事が明確な過渡期のLLMのおもりのような物となった結果、価値を感じられなくなった事に思う。

エディタを作る事には価値を感じている。これはきっと過渡期の何かだけど、 今その過渡期をこのエディタを作って生き抜くのは、なんだか正しい事をやっている気がする。

BOOXやAndroidのちょっとしたツールをつくるのはどうだろう? 作るのは簡単に出来るようになって、日々の生活がどんどん便利になる事には価値を感じる。 だが、生み出したソフトウェアにはほとんど価値を感じない。 これらは、それを使った生活の方に主体があるように思う。 作っている時間にはそれほど意義を感じない。ゼロになるならたぶんそっちの方がいい。 ただ、今自分のスマホやタブレットのポテンシャルを引きだすのは、 結構正し事をやっている気がする。作ってる時間には価値を感じなくても使っている時間には価値を感じている。

ノートをとる関連のツールは、ちょっとしたツールとは自分の中では違う重要度を持っている気もする。 これはエディタに近い何かに思える。 手書きのノートとテキストの融合は自分にとっては未だに解決出来ていない重要な問題で、 今まさに解決すべきで、出来る問題のようにも思う。 そしてノートをとる事は過渡期的では無い重要さがある気がする。 結局計算は自分でやる必要があるし、 読んだものを自分なりにまとめる事には意義がある。 他人のまとめより自分がまとめた方が良いのは、他人がLLMになっても変わらない気がする。

サーフィンの価値は以前と何も変わっていない。以前と何も変わっていない事も結構あるよなぁ。 ギターなんかも何も違いを感じない。

歴史を学ぶ意義もそれほど変わっていない気もする。最近は【書籍】興亡の世界史、シルクロードと唐帝国を読んでいるが、 こういうものの価値はむしろ微妙に高まっている気もする。 健康に関する事も価値を失なっていない気がする。健康に関する知識は、今後むしろ価値が高まりそうな気もする。 LLMはどうもみんなが間違った事を言うとそれを事実と思う傾向が強いと思う。 だから健康のように、間違えた話がめっちゃ拡大して広められる話題には弱い可能性がある。 しかも、健康に関する決断は、個人の価値観とあわせないと答えが出ない類の問題も結構ある。 そういう問題では、自分が正しく理解する必要があるし、 その時には自分が学んでおく意義は薄れないように思う。

大学生の頃、もう大学受験は終わったのだから、計算やら定理やらその他いろいろ受験の時に教科書を持ち込めないがゆえに覚えた事なんて、 今後は書いてある教科書があればそれで良くて、必要になったらそれを見ればいいんじゃないか、 と思っていた事がある。だが計算でもなんでも、教科書を参照するだけだと、参照した事しか分からないので、 二段階必要なものには辿りつけない、という事に気付いた。 ある分野について、自分の学習の歴史において最後に学んでいる事は、書いてある教科書を参照すれば良い。 だから完全に習得している必要はなく、一度でも軽く理解しておけば十分だ。 だがその前提になるものは一通り理解していないと、その解説は理解出来ない。 式でも解説でも、その一つ前の分野は一通り理解している事を前提としている。 だからその分野の学習の旅路をそこで終えるのなら、全部を自分のものにするまでやる必要は無いが、 その次に続いていくつもりなら、結局計算の多くは自分で出来るようになる必要はあるし、 いろいろな事を結局覚えておかないと、その次には進めない。

そもそもに、なんでも調べられるソフトウェアや図書館があっても、調べようと思う自分が居ないとその知識には結局アクセス出来ない。 ボレル集合族の定義を調べる事は誰にでも簡単に出来るが、 それを調べようと思うのはそれを理解しているのと結局かなり近い知性を要求される。 そうであるなら、自分よりずっと高い知性を持つものが自由に無料に近い形で使えるようになったとしても、 自分自身の知性には価値がある気がする。 そういう点では、学ぶという事には割と価値が残るのかもしれない。

ただ最近Neural Machine Translationの論文を読んでいるが、こういう知識はもう不要だな、とも思う。 Recurrent Networkがなんだったのか、LSTMがなんだったのか、という事も、もう一部の人以外はしらなくてもいいかな、と思う。 不要になった知識も結構あるよな。 この辺は自分が価値を感じるものを学んでいきたい。

最近は夜にお絵描き配信ライブをやっている。 この活動も価値を失なっていないと感じる。むしろ今しか出来ない事をやっている気がする。 過渡期だから必要なだけの雑用と今しかやれない輝きの違いがなんなのかは良くわからないが。

絵は明らかに自分より上手い絵が生成出来るようになり、 もう何かに似せた絵を描く事にはあまり価値は無い気がする。 公式そっくりに描けるファンアートにはまったく価値を感じない。 また、上手い絵に感じる価値もだいぶ下がってしまった。 SNSで凄い描きこみの壮大な絵が流れてくると、凄いなぁ、とは思うが、 似たようなものは簡単に生成出来て、それは全く見る気が起こらないという事実が少し脳裏をよぎる。 その人にとっては何か価値があるのだろうとは思うが、第三者として流れてくるのを見るだけの自分には、 以前よりは明らかに感動が減ったように思う。

だが、イラストを描く楽しさ、というのは、あまり変わってないようにも見える。 そしてちょっとしたイラストや挿絵が描けたらいいな、という思いもそれほど減じていない。 描く事を通したコミュニケーションのようなものの価値は、むしろ高まっているようにも思うので、 お絵描きライブというのは今やるのにとても良い活動にも思っている。

今でも自分の中の究極のコンテンツはファミ通の水玉螢之丞先生の、こんなもんいかがっすかぁ?なのだが、 ああいったものの価値は何も減じていない気がする。 絵はなかなかmixedで複雑な状況だよなぁ。

ブログなどの文章を書くのも、以前と同じように価値を感じている。 ただ、書いたものは以前よりももう読まれないだろうな、という気もする。 ブログを書くというのはより個人的な体験になっていくのだろうな、 とは思うが、そもそもにだいぶ前からブログはあまり読まれなくなっているので個人的な体験にはなっていた。 だからあまりここ数年で価値を減じた気はしない。

じっくり考える時間を持つ喜びは、今後もあり続けるだろう。 むしろ今はそういう事をして日々を過したい、という気もしている。 今の時代は、ブログを書いているのがいいのかもしれない。

面白い文章の価値はあまり減っていないように思う。 カクヨムのデイリーランンキングには駄作ばかりが並ぶようになった。 良くメカニズムは分からないが、少なくとも面白い小説は増えてない。 面白い小説の価値はあいかわらずに思う。 小説は、少しつまらない似たようなものが大量に生成出来る事には全く価値が無い。 そこは自分の望みのイラストを生成したい、というのとは事情が違うようにも思う。 読む側の時間は別に増えてないので、結局は読むにあたいしない文章が大量に簡単に生成出来ても嬉しくはない。

そういう点では、ブログなども面白い内容だったら価値はあいかわらずあるような気もする。 自分のブログが読む価値があるほど面白いかは分からないが、 友人たちがブログをもっと書いたら読みたいような気もするので、 少くとも身内にとってはコンテンツとしても価値はあるかもしれない。

twitterに流れてくる文章を読むよりはマシな気もするんだよな、ブログ。

少しまとまった文章を書くのは今自分がやるのに向いているかもしれない。 なんだかんだでwebに文章を書く事にこれまでもかなりの時間を使ってきたので、 意外と自分にとって大事な事のような気もするんだよなぁ。