インターネットと日本語を書く事
機内書き物。
ある程度ちゃんとした日本語を書く、という機会が、近年減ってきたのではないか?という話。
日本語の作文技術という本の感想をマストドンに投稿してた人がいて、そういえば昔読んだなぁ、と思って話をした時に思った事。
自分はかなりたくさんの日本語を書いてきた方だと思う。 書籍を出版しているのもあるし、ブログやホームページや社内向け文書などの技術文書は本当にたくさん書いてきた。 今書いているこのブログなどもそうだ。 例えばAndroidの入門の文書、機械学習の入門の文書、C言語の入門の文書など、たくさんのチュートリアルのような文書や、 自分で作った言語のリファレンスやチュートリアルなども全部書いてきた。 それぞれ薄めの本くらいの分量がある。 自分の周りで自分くらいこうした文書を書いている人はいない事からも、 自分はかなりたくさんの日本語を書いてきた、と言えると思う。 文章を書く、というのは、自分の中でかなりの時間を費やして行ってきた事である。 普通の日本人よりもずっと多くの日本語の文章を書いてきただろう。
多分自分の書いた日本語の量は、インターネットが普及する以前のほとんどの人間が書いた日本語の量よりもだいぶ多いんじゃないか。 インターネットとパソコンは文章を書くという事を凄く身近なものにした。 紙のノートとペンでたくさんの文章を書いてきた人もいるだろうけれど、 紙のノートは物理的なスペースもとるし、ペンで文字を書くのは力も要るし身体に負担もかかる。 ちょっとだけだがお金もかかる。 書く速度もタイピングの方が早い。 量を書くという点ではやはりパソコンとインターネットの普及というのは大きな出来事だったのだと思う。 文章を書く事を民主化した、というとちょっとそれ以前も民主化されていたと思うので誇張があると思うが、 デジカメと携帯のカメラで写真を撮るのが身近になったのと同じような事が、 インターネットとパソコンで文章についても起こっていたように思う。
一方で、もう少し若い世代はまとまった文章を書く機会が減っているのではないか? SNSでは長い文章を書かない人の方が多い。 動画を見たりコメントしたりも長い文章を書く事はあまり無いだろう。 自分も以前なら文章で書いた事をpodcastや動画で発信している部分はかなりある。 以前よりもだいぶ書く文章は減った。
一部のなろう小説作家などはものすごくたくさんの日本語を書いていると思うが、 多くの普通の人はあまり長い文章を書かなくなっているのではないか。 例えば現在のこの文章、飛行機で2時間くらい時間を潰したい、という時に、 自分はこうした文章を書いて時間を潰す事は良くやる。 だが、この手のシチュエーションで文章を書いて時間を潰すというのは一般的ではなくなってしまったのではないか。 というのはこの書いた文章を公開する場所を、多くの人はもう持っていないから。
カンファレンスなどで発表したりzennや増田に書いたり、と、現代でも文章を書く場所はあり、 そうした所で文章を書く経験をしている人もいるとは思う。 ただ自分の世代ほどは一般的ではなく、一部の人だけがやる事になってしまったような気がする。
文章を書くのは楽しいし、有意義でもあると思う。民主化されたはずの文章を書くという行為がまた一部の人だけに戻ってしまったのは残念だなぁ。
文章を書くという事が日常になっていないと、文章を書くという敷居が上がってしまう。 例えばAmazonの本のレビューを書いたり、カクヨムやなろうのレビューを書いたり、という事をあまりしなくなってしまう。 こうした投稿をしない人が増えていく、というのは残念な事だと思う。
日本語の作文技術という話に戻ると、こうした話はまとまった文章を書く時しかあまり重要では無い。 だから文章をたくさん書く方が学ぶご利益があるとは思う。 そういう点では近年は重要度が下がっているかもしれない。
こうした本は、読むだけではあまり意味がなくて、たくさん書いて習得する必要がある。 だからたくさん書く機会が無ければ、読む意義はますます薄い。
なお、自分はこの本を読んだ後に、この本を見直しながらたくさん書いて練習した、という訳では無いので、内容も大して身になっていない。 なので自分はちゃんとしているがお前らはちゃんとしていないのでけしからん、最近の若いものはこの本読んでなくて嘆かわしい、 とかいう意図は無い。 そもそもこの本の無駄に左翼的な例文は全く好きになれないので、あまり人に勧めたいとも思っていない。 ただ内容的にはやはり主張が強い人の方がこうした本を書くには向いているな、とは思っていて、 理科系の作文技術とかよりはよっぽど読む価値はあるとは思っている。
自分の書いた文章は日本語としてちゃんとしている、という気はないし、 むしろ反対にあまり推敲してない文章を公開する勇気を持つのが文章を書くには大切だ、という強い信念を持っている。 だから自分の文章を読んで、謝っていたり適切でなかったり単純に誤字だったりを気づくのは誰にでも出来るだろう。 自分も読み直せばすぐに問題に気づく。 一回くらいは読み直す事もあって、その時に手直しはするけれど、一回では間違いなく誤りは取りきれていない。 だから他人が読んだ時に、なんて誤りだらけなんだ、と思うだろう事は、こちらも十分承知している。
だが普段あまり文章を書かない人が私の文章を読んで「なんて酷い文章なんだ、日本語の書き方が何もなっとらん、自分の方がよっぽどマシだ」と思うなら、 多分最後の「自分の方がよっぽどマシだ」というのは誤りな事が多いと思う。 こうした他人の作ったものをみて、自分が作っていないのに自分の方がマシだ、と思うのは、大体間違いだ。 ものを作るのと、作ったものの粗探しをするのは、圧倒的に後者の方が簡単である。 酷い文章のどこが酷いかが分かる事と、酷くない文章を生み出す事には大きなギャップがある。 自分の生み出した文章と比較をしてなお酷い、という時になって初めて、自分の方がマシだという事が出来る。 ちなみに私よりマシな日本語を書く人がたくさんいる事を否定する気は無い。 書いていない人間に言う資格が無い、と言いたいだけだ。
文章に関して言えば、酷い文章のどこが酷いかが分かると、直し方も大体分かる。これはソフトウェア開発とは違う所だ。 直し方が分かるので、原理的には酷い文章を見て、それがどこが酷いかが分かれば、それを直す事が出来る。 だから酷い文章を見ると、「自分の方がマシな文章を書ける」と誤って思ってしまう。 これはそもそもに内容を書く能力の問題という事を置いておいても誤りだ。 というのは、推敲にはコストが掛かる。 文章を発信する時に、どこまでのコストを掛けられるか、というのは実力の一部になる。 何度も推敲すれば良い文章に直す事が出来る人も、何度も推敲出来るかは分からない。 すぐに飽きてしまって完成まで行けない人には、決して正しい日本語に直す事は出来ない。 もっと言えば、それぞれの人間には推敲バジェットのようなものがあり、 行える推敲の量には限りがある。 この予算を超えて推敲を行う事は出来ない。 だからある長さの文章に対してどこまでまともな日本語にする事が出来るか、というのは、 酷い所が分かって直せる範囲まで直せるというのは間違っている。
この辺の話は、実際に文章を大量に書いて公開している人は皆知っている。 だからこそ文章を書いて公開していない人の語る「自分の方がマシ」は聞くに値しない。 他人の文章を評する時は、自分の世に出した文章と比較しないと行けない。 しかも一回だけちゃんとした文章を書いた、では十分では無い。 継続的にアウトプットが可能な範囲でどれだけの推敲バジェットがあるかを示さないと説得力が無い。
なお、ソフトウェアは間違っている場所がわかっても、正しい直し方が分かるとは限らない。 ソフトウェアをディスっている人が修正案みたいな事も語っている時には、大体修正案は碌でもない。 イマイチと指摘している場所は大体正しいが。 間違いがわかる事と正しい姿を知っている事の間には大きなギャップがある。 文章も多少はそう言う部分があるが、ソフトウェアの方がそのギャップは多い。