自分の考えと異なる結果の社会統計データに接した時の心構え
たまにはプログラムと関係ない雑談的なブログを。
例えば残業時間の国際比較でも自殺数の推移でもなんでも良いのだが、そうしたデータというのが自分の思っていた事と違う結果だった場合に、 どういう心構えで接するべきか?というような話を。
まず、自分の思っていた事と違うデータに接すると、 本能的にデータの不備を疑う。日本はサービス残業が統計に表れていないのではないか、とか、自殺とカウントされていない自殺がたくさんあるんじゃないか、とか。 でもそういう態度は良くない、という話をしたい。
まず、データの不備の可能性は間違いなくある。それは正しいかもしれない。そしてその事は考慮に入れるべきだ。
でも、考えと違うデータを見る時だけいつもそういう風に考えて考えを変えないのなら、そもそも統計データを見る意味が無い。 どんな統計データでも必ず何かしらの問題の可能性はある。 全ての問題に完璧に対処されてどう見ても自分の考えを覆すしかない、なんて状況は、基本的には発生しない。 だからそうした不備が無い限り考えを変える気が無いのなら、 そもそもデータを見る必要は無い。 どんなデータがあろうと自分は考えを変える気は無い、と胸を張って言えば良い。 どのようなデータでもこの考えを覆す気は無い、という強い信念は、別にあったっていい。 だがそうであるなら、統計データを見るなんて無駄な事な事だし、 変に理論武装するのも皆にとって無駄な事だろう。 どうせ考えを変える気は無いのだから。
だからデータを見るのが何かの事実を知る目的であるのなら、態度としては不備の可能性に留保をつけつつ基本的には正しいという前提で受け入れるべきに思う。 それをする気が無いなら統計データを見る意味は無い。
留保の度合いは当然ものによって大きく異なるだろう。「あまり信頼性は高くないが一応そういう事にしておこう」くらいのものから、 「まぁ大体は確実と言って良さそう」というレベルまで、さまざまな違いはありうる。 だが、自分の思い込みには根拠が無い一方でデータの不備の方にだけは問題を挙げる事で根拠としては棄却する姿勢は良くない。
明らかに納得し難い時にデータの方におかしい所は無いのか?と考えてそれをさらに深掘りするのは、一見するともっともに思えるし、 そうした感覚との差がどこからきているのかというのが重要な場合もある。 けれど、納得し難い時だけ掘り下げて、納得できるものは流す、というのは、態度として非対称で、 データを見る意義を損なっている場合も多い。
問題が色々ありそうなデータを前にそれだけで考えを改めろ、というのは行き過ぎではないか、と感じるし、 実際それはニュートラルな感覚で判断出来るならその通りだろう。
だが、心理的に自分の考えと違うデータに直面した時には反発が大きくなるのは良く知られている反応なので、 基本的にはニュートラルとは程遠い受け止め方になっている。 その湧き上がる思いに単に従うのは大体はすごく偏った見解を補強してしまう。 少し反対に振りすぎるくらいのつもりでいてちょうど良いくらいになる。 だから大体は留保をしつつひとまず正しいという前提に立つくらいがちょうど良い。
何か納得出来ないデータを見かけて、それの問題点とか反対のデータを探そうとしている自分に気づいたら、 一歩引いて「ではどのようなデータだったら自分は意見を変えるだろうか?それは実質どんなデータでも変えないと言っているのと変わらないのでは?」と自問してみるのは割と役にたつ。