社会人の専門性と書く文章の面白さ
audiobookの聞き放題でいろいろ雑多なものを聞いていると、 世の中にはびっくりする程専門性の無い大人が何冊も本を書いているという事に直面する。 そういう本は本当に酷い内容で面白くもなく、長年生きてきた大人がこんな事しか書けないものなのか、と思ってしまう。 そういう人がかなりたくさん居るというのは、 こういう聞き放題サービスと運転中の暇つぶしというシチュエーションが無ければ知る事は無かったかもなぁ。
一方で、世の中には自分が全く知らない分野を専門にしている人たちもいて、 そういう人たちの語る世界は面白い。 今聴いているamazon: はじめてのスピノザなども、 スピノザというのを何も知らなかった自分には興味深い話ばかりで勉強にもなる。
世の中の本には、専門家というフリをしつつ完全に素人みたいな人が書いた本というのがかなりたくさんある。 同じジャンルとして哲学の本などでも、本当に何も知らない人が適当にどこかに書いてある事をコピペして作ったかのような、 少し知っている人なら間違いばかりと分かる本もある。 そしてそういう本のレビューが高かったりしてびっくりする。 歴史や経済の話で、けれど学問的ではない一般向けのトピックのような本には、特にそういうものが多い。
別に専門の研究者で無くても一般向けに紹介するくらいは出来そうな気もするし、 書いている本人もそう思うから書いているのだろうけれど、 出来上がる本は酷いものばかりな事を思うと、 意外とちゃんとした専門性が無いと初心者向けの本というのは書けない、という事なのかもしれない。
酷い本を書いている人が似たような本を何冊も出しているのを見ると、 いい大人が長く生きてきて出来る事がこんな事なのか、と情けなくなる。 一方で、自分の全く知らない分野を専門に生きていく人を見ると、 こんなに自分の知らない世界があるのだな、と、 世界が広がったような気分になる。
ひるがえって自分はどうだろう? 自分は一定の専門性は身に着けたと言って良い気がする。 最近作っているゆっくり実況を作っている時に思った事だが、 この内容の根幹には専門知識がある。 ゆっくり実況の入門は皆同じような事をやりたがるが、 それらは何も専門性が無い人が出来る事ばかりである。 自分がやる内容が違うのは、自分に独創性があるからでは無く、知っている事に違いがあるからだろう。 別にgitの開発者という訳では無いし、自分の本当の専門とはずれている事ではあるけれど、 それでも本当に実務で長く使っていて、多くの経験を持っている。 ただ他の所にある解説を横流しするのでは無く、自分が考えた伝える事を伝えていて、そこに価値がある。
gitはまぁ微妙な所もあるが、プログラムに関しては自分は専門知識があると言えるだろう。 自分の語る技術系の事は、おおむね自分の経験から、ある程度の独自性をもって語っている気がする。 プログラムの専門というと、昔はコンパイラとか並列GCとか特定の狭い専門性を追求している人たち限定の話と思っていたが、 ある程度経験を重ねてみると自分のやってきた事には自分のやってきた事なりの専門性もあるよな、と思うようになった。 プログラマというのはそれ自体で結構な専門性なんだよな。
一方でプログラマが皆自分と同じ期間プログラマをやれば何かしらの専門性を持つのか?というと、そうでも無いようにも思う。 違いがどの辺から来るのかは分からないが、 同世代の友人たちに本を書いたりpodcastをやったりを勧めると、別段話す事なんて無い、という人はそれなりに居る。 実際にはある程度の経験はあって面白く語る要素はあるとは思うけれど、 それでも語る事の量にはかなりの個人差はありそうだ。
20代の前半くらいでベンチャーとかで働いていて、自分のやった事を説明するのに「自分はチームに必要な事はなんでもやってきた」みたいな人というのは一定数いて、 そういうのはフルスタックエンジニア的な幅広い経験を持っているという良い意味で解釈される事もあるが、 同じ人がアラサーくらいになっても同じ事しか言わないと、 「それで結局お前は何が出来るんだ?」と聞きたくなるような事というのはそれなりにある。 プロジェクトを単にやっているだけでも普通は何らかの専門性は身について、何かしらにはなっている事が多いとは思う。 ただみんながみんなそうでも無くて、なんか話すと分かるよな。 そういうのはアラサーくらいでなんか違いが出てくるよなぁ。
そしてアラフォーくらいになってくると、違いが出てくる、という段階の次に進んで、 その人の主なアウトプットの主要な部分というのがそうした過去によって規定されてくるように思う。 何をするかはその時点での選択な訳で、 例えばゆっくり実況を作る、と決めないとゆっくり実況は作らない訳だが、 そこで出来るゆっくり実況の内容というのはその時に何をしたかというよりは、 それまでどういう人生を生きてきたか、という事に拠っている。 そしてそこに何らかの専門的な経験があるから面白いものになる、という風に思う。
専門性というのが面白さの中心ではないんじゃないか、という気もするんだが、 一方で最近のオーディオブックで聴いているものから感じる結論は反対で、 専門性が無いとなかなか面白い事は語れない、と言っているようにも思う。
若者が書くブログとかは専門性なんて無くても面白かったような気もするんだが、 それはどうなんだろうか。若いうちだけ出来る謎のボーナス期間なのか、 書籍というのがそういうのとは違う何かを生んでいるのか、良く分からない。
でも40代、50代、60代になると、なんかその人のやってきた事に期待したくなる部分はあるかもなぁ。
専門性の無さにがっかりするのは、読む本、聞く本のジャンルにそういう偏りがあるからかもしれない。 経済とか健康とか歴史とか哲学といった分野が絡む事について語る時には、 専門性が無いと面白いものにはならないのかもしれない。 そして専門性を必要とする分野は結構いろいろ幅広い気もする。
本を書いたり、何か発信したりしなければ、別にいいと思うんだよな。 本を書いたりする場合は、長く生きたからには何かの専門性を持ってものを書いてほしい、と感じるのかもしれない。
自分は普段、もっと周りの人にも発信したり本を書いたりして欲しいと思っているのだが、 そうした事をすると要求されるものは増えるのかもしれない。
まとまりは無いけれど、audiobookを聞いていると、自分の知らない分野を専門に生きてきた人間たちの語る話というのは、 とても面白いなぁ、と思う。