30代後半のインプットが40代前半のアウトプットに役に立っているかも?
ここ3年くらいは結構仕事をしていて、自分にしては比較的長期間働いている。 フルタイムでは無いので濃度は薄いが、全体的にはアウトプットに偏った3年間だった気がする。 この間のアウトプットはまだ一切世に出ていないので中間自己評価ではあるが、 けっこういいアウトプットが出来ていると思っている。 なんでけっこういいアウトプットが出来ているのかな?と考えると、30代後半のインプットのおかげかも?という気がしてきたのでそんな事を残しておく。
この仕事を始めるまでは割とインプットに偏った時期が多かった。 30代の後半から40代の序盤に掛けては機械学習や数学などを勉強したりAndroidの本を書いたりしていて、 Androidの本はアウトプットかもしれないけれど、読んだり勉強したりしている副産物という部分が強い。 今回の仕事を始める前の数年は、いつも年末に「今年はプログラムのアウトプットがいまいちだったのでもうちょっとなんとかしたいな〜」というような事を書いていた。 アウトプットの為にインプットをしていたという訳では無く、単に興味の向いた事を学んでいただけで、 しかも一部は「明らかに要らないよな、これ」というものがあった。 楽しく日々は過ごしていたが、自分のプログラマ人生としてはもうちょっと何かやれんもんか、という気はしていた。
でも40代の前半で今の仕事に集中して取り組んでいて、結構いいアウトプットが出来ている理由を考えると、 この好きな事を適当にインプットしていただけで大したアウトプットの無かった時期が下地になっているんじゃないか、という気がしている。 Hadoop関連の仕事をしていろいろ勉強したり、TensorFlowとかKerasとかコード読んでいろいろ触ったり、Androidのソースをたくさん読んだり、 c-lessonとかいろいろやってみたり(これはアウトプットかもしれんが)、 pythonとかnodeの今風のライブラリをいろいろ使ってみたりコードを読んだり、 KotlinやF#などの言語を使い込んでみたり、Jetpack Composeとか今風のGUI周辺を使い込んでみたり。
そうした事たちを通して、「自分だったらもっとこうするのに」とか、「自分もこんな事やってみたい」、みたいなのを自分の中にある程度貯めた結果、 今回の3年とか比較的長期間働いていても自分の中のやりたい事が尽きていない気がする。 この、それなりの大きさの「こんな事やってみたい」が複数あるというのは、まとまったアウトプットをするには必要な事なんじゃないか。
プログラマ人生という事を考える時に、30代に大したアウトプットが無かったのはあんまり良い事では無いんだろうな、とは思っていた。 実際プログラマ人生のアウトプットを最大化しては居なかっただろう。 だが、自分が思っていたほどマイナスは大きく無いのかもなぁ、という気はする。 30代をそのまま働いていたら、きっと40代に今のようなアウトプットは出来ていなかっただろう。 アウトプットがあまり無くいろいろな種類の大量のインプットがある時期、 というのは、大きめの面白いアウトプットをするのにとても有効に機能している気がする。 堅実に30代にもアウトプットを積み重ねていたら40代にはまた違う良さのあるものを出していたとは思うのだが、 少なくとも最近作っているもの達は、それの劣化コピーというのとは違う面白さがある気がする。
こうして考えると、プログラマのアウトプットというのは創作活動的な側面があって、 自分の中に何かが溜まってないと出来ないものというのはあるんじゃないか。 だから大きな事をやるには、それを貯める時期は必要なんじゃないかな。 少なくとも、なんか貯めた結果出来るものってあるよなぁ。
ずーっとなんか冴えないアウトプットだなぁ、と思いながらインプットをし続けるのは良くないとは思うんだが、 数年くらいはそういう年が続いても意外と悪くないのかもしれない。 何よりそれが自分という人間なので、最近の一連の仕事は、それを活かした自分らしいアウトプットをしていけているという事なのかも。