今、生物の本を読んでいて、最初の方に原子とか分子の話が、かなり細かくある。 例えば共有結合とイオン結合の違いとか原子量とはなにかとか、電子軌道の最外殻は8個の電子で充足するとか電気陰性度というものがあり、その違いで極性が生まれたり生まれなかったりする、とかそういうの。

様々なややこしい用語が大量に出てきて、一方でそれらを自分たちは高校生の頃にすごく細かく学習していて、 少なくとも当時は完璧に習得していた事に驚く。 これは今回のように、生物の教科書を読んで出てきた解説だけを読んで分かるような事じゃなくて、 目的の応用から一歩離れて化学をちゃんと勉強しないとたどり着けない境地に思う。 ちゃんと勉強するというのはただ本を読むだけじゃなくて、いろいろな事をして大学受験の時にマスターした訳だ。

こうした膨大な基礎に支えられて、大学一年レベルの教養の学習というのは行える。 「教養の学習」というと大した専門性の無い、新書を読む程度のなにかに聞こえてしまうが、 大学一年レベルの教養というのはそんなに簡単では無い(物も多い)。 例えば物理であれば解析力学と電磁気だ。 ガウスの法則とかストークスの定理が必要になるし、それはつまり基礎的なベクトル解析が面積分のような物が必要で、 さらにオイラーラグランジュを解いたりも出来るという事だ。 ここではそうしたレベルの学習を、「大学一年レベルの教養」、略して「教養」と呼ぶ事にする。

大学一年レベルの教養は、知りたい事が出てきて、それをググって出てきた物を辿っていくだけでは習得出来ないと思う。

ググって出てきたものを辿っていくだけでも、相当難しい解説を読む事になる事はある。 例えば元の論文だったり、論文の解説ブログの中には準専門家向けの解説があったりもするので、 そうしたものは学部一年レベルの教養よりも高度な内容を含む事がある。 ただ、専門外のそうした難しい部分を含む解説のそれなりの割合を理解出来た所で、 その分野の理解出来ていない所が抜け落ちているという事実は変わらない。 専門家や準専門家がそうした解説を読んだ時に得る理解と、専門外だが数学とか一部の要素をちゃんと理解出来るような部外者が得る理解には、 大きな開きがある事が多く、また、そうした開きの間に割と重要な要素がある事も多い(だからこそ専門分野として成立している訳で)。

専門外の事をちゃんと理解する為には、基礎的な事をちゃんとやる必要がある。 そして本当にちゃんと理解するならその専門の事までやる必要がある。

自分の専門分野を思い浮かべれば分かるように、大学一年レベルの教養をちゃんと学ぶと、 その分野の専門家とかなりの深さでコミュニケート出来る。 一方で専門分野の説明をそのまま理解する事は出来ない。 そして、大学一年レベルの教養を学んだ人間と、そうでない一般人の間には、ものすごく大きなギャップがある。

話題になった事を調べていく時には、きっとみんな同じような物を読む事になる。それは多様性の点で問題がある気がする。 そうした時に、大学一年レベルの教養をしっかりと学ぶと、知りたい事をググって関連する事を読んだだけでは通らない様々な事を知る事になり、 そうした物の中にはすごく重要な事がたくさん含まれている。

学士という資格には、そうした教養を学ぶ大変さやその大変さを乗り越える意義のような物を、 少なくとも自分の専門分野において正確に理解出来て、 さらに自分の分野以外の大学一年レベルの教養を学ぶ事が出来る能力を持つ、 という事が期待されるスキルなのでは無いか。

電気陰性度についてはたぶん大学の学部2年に化学で出てきたのが最後だったように思うので、 それ以後20年以上一切考えた事は無い概念だったと思う。 職業プログラマになる、という観点で行けば、たぶん化学のほとんどの知識は必要無い。 一方で、今回のように生物を学ぼう、と思った時には必要になる。 高校の学習内容には進路を選ぶ時にいろいろな進路を選ぶ事を可能にする膨大な基礎が提供されているよなぁ。 また、専門から離れて別分野を学びたい時に、 こうしてものすごく広い学習可能空間を提供してもくれる。 これは問題からググって辿っていく事では到達出来ない教養を与えてくれるものだよなぁ。

教養というのはこういう事だよなぁ、とか思ったりした。