一発当てよう、という試みは確率的にはだいたい失敗するので、中身を一切考慮せずとも失敗を予言するだけでかなり正解が得られる。

若い内はそんな「いつもNOを予想するモデル」みたいな予想なんて大して価値も無く、面白くも無い、と一蹴出来ると思う。

でも年を食ってくると、いろいろな一発当てようという試みに関わった経験を経る事になる。 それは確率的にはだいたいは失敗した経験となる。 字面の上での失敗に、実際の体験が付与されていく。 すると、「いつもNOを予想するモデル」の重みを感じるようになっていき、 自明でつまらない物から世の真理を告げる哲学的な何かを見出してしまったりする。

低い確率は、ゼロでは無く低い確率として扱わなくてはいけないはずなのに、 経験を積むと、残りの人生での挑戦の回数が見えてきて、あまり起こらない低い確率をゼロと解釈してしまいがちに思う。 でも低い確率はやっぱり低い確率であってゼロでは無い。 1人の人間の試行回数ではだいたい失敗であっても、人をたくさん集めれば誰かは当たるし、 十分数を集めれば当たる人の数はそれなりにいる。 一定数いることを予想すべき時に0と予想してしまうのは非合理的だが、 自分の経験だけから予想をすると0に見えてしまう。

経験を積むと積まない時より正しい予想が出来てほしいと思うのだけれど、低い確率を予想する時には経験は邪魔をしがちだよなぁ。 特に失敗を単なる数字で無く、失敗した時のみじめで辛い思い出とともに考えると、どうしてもそちらを中心に物を考えてしまう。 失敗することに慣れてしまったおっさんは、本来のフェアな予想よりも、失敗する側に倒しすぎてしまう。

でもポワソン分布のように、単位時間ではほとんど負けない物でも、長い時間では確実に負ける、ということはある。 そして過去のハイテク企業はいつでも10〜20年の単位で負けている。ずっと続くように見える覇権は意外と続かない。 年を取ると短期の経験から無敵に見えてしまうが、それは間違った教訓を引き出してしまっている。

単に予言して当たった外れた言うだけならどちらでも大したことは無い訳だが、 失敗に慣れてしまうと、行動を選択する時に間違った選択をしてしまう。 勝ってる相手を倒す時に、それまで全ての挑戦をはねのけてきた強者には、きっと今回の自分たちも失敗すると思ってしまったりする。 ミーティングをしていても、プロジェクトの方針を話し合っていても、 負けることに慣れてしまったおっさんというのは結構見かけて、 そういうのは何かに挑戦する時には邪魔になる。 挑戦するのに邪魔になる人材は不要な挑戦を防ぐという点で役に立つことも多いけれど。

勝ち馬に乗るだけなんてつまらない、という思いもあるが、負けた側しか体験してないと負けることを過学習してしまいがちにも思う。 そうして学習された世界観は面白くもない上に、真実でも無いよな。

負けるのはいいとして、負けることに慣れないようにはしたいものだ。