型にはめられたルール通りに生きていくことはやさしいけれど

最近暇つぶしに良く話しているチャット(じゃないけど)がガンヲタ率が高くて、良くZとかZZの話になる。 で、歌の歌詞とかが流れてくることもちょくちょくある。 そこでは子供というのは自由とか夢があって、大人は常識に押し込めようとしてくる、みたいな前提がある。 時代を感じる内容で、現代とは結構違うよなぁ、と感じたというのがこのポストの主旨。

ZZガンダムに限らずあの時代にはそういう前提があった気がする。ギザギザハートの子守唄とか。 いい学校出て、いい会社入って、それでいいのか人生、みたいな。 で、子供には夢があって何かを生み出したいと思っている。 邪魔をするのは大人であって、それこそが主な障害という。

一方で現代の若者はそういう不満はずいぶん減ったように思う。 何か夢とかあって、それを親に邪魔される、というのは、無い訳では無いが主な若者の不満では無いように見える。 敷かれたレールの上を走らされるという不満もあまり聞かなくなったし、実態ともずれているように思う。 30年前くらいには子どもたちみんなが望んでいた(ことになっている)自由な進路の選択は、 現代では大多数の人にとっては実現されているように思う。 レールはあまり敷かれていないし進路は自由に好きに選べる。

自由な選択がうまく行った人、うまく行かなかった人

進路が自由になって楽しく人生を歩んでいる人はいるし、多数派かもしれない(どうだろう?)。 自分も割と進路の選択とかはうまく行った方に思っているし、別段不満は持ってない。

自分はそもそもにプログラムが好きなプログラマであり、友人たちもそういう傾向が強い。 私が普段あって話をする時点でわざわざそういう事をするくらいには相手もプログラムが好きであり、 また実力もそれなりにある。 で、現代では実力のあるプログラマというのはすごく労働市場的には恵まれた立場で、 給料も高いし環境も良いし転職の口もたくさんある。 好きな事でこういう環境、というのは、すごくうまく行ったケースと言って良いだろう。

一方で、安いシェアハウスやゲストハウスなどに居ると、プログラマとは違う種類の人達とも良く話す事になる。 安いシェアハウスなどに来る時点で困っている場合も多く、 それまでなんとなく生きてきたがだんだんといろいろ立ち行かなくなって、 30代くらいになって今の仕事は続けられそうも無いので転職したいが別段なにもスキルとか専門性とか無い、 という人はそれなりに会う。

また、好きな絵師とかを見ていたら就活で苦労していたり、 チャットで学生が受験したり就活したりしているのを見ていたりもするが、 これもあまりうまく行かないパターンは結構見る(うまくいくのも見るが)。

どっちが多いかは良くわからないが、少なくともそれなりの数の人はうまく行ってないで困っている、 と言って良いように思う。

自由に選べるが、どれを選んでも楽しい先が待っている、という訳では無い。

普通の人はどのくらいすごいのか

現代的な進路の選択というのは、アイデンティティの確立とか、自分は何をしていくか、みたいな話を各自が考えて結論を出していく事を前提にしていると思う。 でもそれってみんなが出来るほど簡単な事でも無いように思うんだが、どうなんだろう?

普通の人って、難しい事をちゃんと考えたり、厳しい現実をちゃんと直視しつつ最善を選ぶべく短期的には嫌な事をこらえたり出来る、 と思って良いんだろうか?

自分はいまいち「普通」というのが良くわからない。現代はあまり「ふつー」とか「多数派」とかを考える事自体に意味は無いのかもしれない、 とも思うけれど、とりあえず普通というものがあるとする。 それは進路とかをちゃんと選べるものなのかね?

現代社会ではいい感じの仕事をいい感じに選ぶって、まぁまぁ難しい気もしているのだよなぁ。 半分くらいの人には難しすぎて出来ない、くらいには難しい気がするんだがどうだろう? 実は普通の人はそのくらいにはいろいろ出来るものなのかなぁ。

確かに自分が見るうまく行ってない人は特殊な人達が多いので、 実はたまたまそういう人達をたくさん見てしまっているだけで、大多数はうまい事やってるのかもしれない。 もしそうなら普通の人、なかなか侮れないな(別に侮ってる訳でも無いが)。

普通の人にどのくらいの能力を期待すべきか、って良くわからない事だよな。 冒頭のZZとかの時代では、ふつうの子どもたち、というものにすごい能力を期待していた気がする。 ガンダム乗ったらとりあえずザクをバルカンで落としたりする訳だからそういう物ではあるのだが。 でもそれってどのくらい適切な事なのかね。 自由に選べる事よりも、ハズレを選んだ時でも結構マシ、という状態を作るのに労力を掛けるべきだった可能性も結構あると思うのだが、 当時のアニメの歌とかってあんまそういう事には不満を述べてないよな。 Fラン行ったら飲食くらいしか無くてブラックだ!とかは主な不満では無かった。

でも多数の人にとって、自由に選べる事と、ハズレを選んでもそこそこな事、社会はどちらを重視すべきだったのだろうか? まぁ子供向けのメッセージにお前らは普通の一般人なんだから、という必要は無いとは思うけれど、 別に子供向けだけの話では無かった気がするんだよなぁ。 こんなにみんなが自由な選択をしなくちゃいけない必要はあったのかね?

普通の人ってのは現代社会でちゃんと進路を選んで仕事をしていくくらいには有能だ、という事を期待すべきなのかなぁ。 実際多数派がそうなのだとしたら、大したものだよな。その可能性はある。

進路を選ぶ難度、という点では、適性とかもあるよな。 例えば絵とかギターとかサーフィンがすごい好き、という人と、プログラムがすごい好き、という人では仕事を選ぶ難度は全然違う。 でもこれって完全に運だよなぁ。 どのくらい多くの人はそんなハズレじゃない程度の運を持っているのかね。

いつごろから皆が自由に選ばなくてはいけなくなったのか?

進路の選択が現代くらい多様で自由に選べて、しかも何か選ばないといけなくなったのは、結構最近の事で、 これまであんまり無かった事なんじゃないか。あんまり詳しくない事を適当に言うが。

明治文学とかその前の文学を見ていると、江戸時代とか明治とかだと家が農家なら子供は農家で、 長男は家業を継いで、次男以降は進路にこまるが石を運ぶか駕籠かきをやる、というのが定番っぽく見える。 次男は現代の困難さに近い物があると思うが、選択肢は少なく、家に寄生出来るならする、出来ないなら過酷な労働で短い人生を終える、 みたいなのがスタンダードに見える。だから明治より前にはあまり現代のような進路の選択というのは無かったと思う。

明治維新の頃というのは帝大生なんかはベンチャーみたいなのをみんなやっていた様子が伝わってきて、 それは現代的な選択の自由度に通じるものを感じる。 だが一方でそういうのはエリートたちの模索であって、庶民は突然江戸時代から生活が変わったという事も無さそう。

戦後あたりになればそれなりに進路は選べたはずだけれど、80年代くらいまでは研究室に大手の人たちがやってきて、 人材をガバっと確保していって、その確保される先というのはそんな悪い職場でも無く、そのまま定年まで働くのが結構あったんじゃないか。 で、そこまで良い大学じゃないとそれなりに質は落ちるのだろうけれど、それでも似たような形で就職先はあって仕事は決まってたんじゃないか。 あんまり詳しくは無いけれどそんな気がする。

製造業からサービス業に移ったあと、ちょうど90年代くらいからそういう形態が変わって現代的になっていったように思う。 バブル期あたりからその辺と思うのだけどバブルの間はそういうのわからないのでバブル崩壊後くらいから現代のような形になってきたと思うんだよなぁ。

フランス、オランダ、イギリスあたりはもうちょっと早くから職業の選択に庶民は悩んでいたかもしれない。 フランスは今でも農業率が高いからそうでも無いか。イギリスは、少なくとも英国病とか言われた頃にはもうそういう傾向はあったはずだよなぁ。 イギリス人はいい感じに進路を選べてるのだろうか?