今、線形計画法の教科書を読んでいる。最近買う数学の本はだいたい洋書で、これもそう。 という事で当然英語で書かれている。

数学の教科書なので、読んでいると当然分からない所が出てくる。 そこで止まって、その文章が何を意味しているかを考えて、しばらく考えると分かる、というのが普通だ。

この分からない所でしばらく立ち止まってちゃんと理解出来るためには、当たり前だがある程度の数学の実力が要る。 そこらのネイティブの社会人を連れてきても、まぁほぼ確実に理解出来ないだろう。 さっき止まった線形計画法のdualityの話を理解出来る人は、どこの国でもマイノリティーだ。

そこで英語の読解力という事について考える。 英語を読んで理解する能力、と言った時に、ネイティブの方が文法も語彙も私よりはずっと多い。だから読解力は私よりずっと高い気もする。

だが一方で、英語を読む能力、と言った時に、専門性が要らないものに絞るべき、と思う理由も特に無い。 ふだん読んでいる大抵の文章には、その分野を専門にしている人が居るような、ある種の専門性のある文章の方が、例外というよりはむしろ多い。 数学やコンピュータは例外としても、例えば香港の政治の話を読む時には、政治や歴史の基礎的な知識がある程度無いと理解出来ないものが多い。 経済の話だって健康の話だって宇宙の話だってサーフィンの話だってギターの話だってそうだろう。 そう考えると、語学の読解力というのを専門性と切り離す正当性はあまり無い気がする。

そして数学の教科書を読むという点では、自分はほとんどのネイティブよりはずっと英語の読解力がある気がする。 微妙な表現の違いで説明されたややこしい概念達を、ちゃんと区別して理解していくのは、まさに読解力というものではなかろうか。

ただそれが読解力の全てというと何か極論になってしまっている気もするが。