自分は、なぜか割と底辺と話す機会が多い。

で、底辺のキャリアというか、あまりにもこのままではどうにもならんのでどうにかした方がいいんじゃないか、みたいな話にもまぁまぁ巻き込まれる。 だが、自分はこの手の話には全く関心が沸かない。

底辺というのはすでに結構困った立場にあり、そこに至るまでの間に困った経験をいろいろして、その経験を通して考え方自体に問題を抱えてしまっている事が多い。 だから普通の人がその立場にあってどうにかしよう、というよりも、 性格とか行動パターン的なものから変えなくてはいけないためより困難な事が多く、 だいたいそういうのは単なる雑談の場でどうこう出来る範囲を遥かに超えている。

だから少し話をして「あぁ、こりゃ駄目な奴だな」と判断すると、 自分は途端に関心を失いがちに思う。

これはtwitterなどで愚痴ばかりになったアカウントをアンフォローするのに似ている。 心の中のフォローを外すというか、関心を失う事でその後の事も見ないようにしている、というような。 能動的というか、その瞬間を自覚している気がする。

基本的にはこれは良い事だと思う。 まず、底辺の状況というのは、詳しく知ってしまうと同情しづらい。 ひねくれてしまった人間は、知らない状態で遠くから支援するくらいがちょうど良い。 だから一定以上駄目だな、と思ったら、駄目なクラスみたいなのにまとめて入れてしまって、個人としては見ずに集団として対応する方が良いと思う。 集団として対応する方が実際にはチャンスも増えるだろうし、より自身の努力などによる違いが生まれやすいので、機会の平等としてもより良いと思う。

また、いつの時代のどんな時でも、探せば困った立場の人たちはいる。 そんなのを自分から見て毎日憂鬱な気持ちになるのは良い事では無いと思う。 国全体の幸福度を個人の幸福度の総体として考える時には、 自分一人の幸福度は大切な要素だ。 何も利益無くそれを損なうのは悪い事だと思っている。 見ないだけで個人の幸福度が増すのなら、そしてどうせ何もしないのなら、見ない方が良い。 ましてや、自分から見に行った結果、性格が悪くなってしまっているのを知ってしまってそれらの行動に嫌悪を招いてしまってアンチになってしまうなら、自分の幸福度が下がるだけじゃなくて相手の幸福度も下がりうる。

だいたい、底辺の「今後どうすべきか」みたいなのは、本人のいないところで行われる笑い話みたいな扱いで、そんな立派なものでも無い。 それ自体はむしろ悪趣味なものと思う。 一見薄情に見えても、むしろ関心を持たない方が本人のことを一人の人間と見ている、くらいの要素はあると思っている。

そういう訳で、こりゃ駄目だな、と思ったものに関心を失うのは、むしろ健全とは思っているのだが、 関心を失われる側から考えるとそこには非連続な変化があるよなぁ、とも思う。 社会の中では一定まではまわりの支援が得られる。 相談すれば親身に考えてくれる人もいて、何か良い話があれば紹介してくれたり、 そういったまわりの個人からの支援のようなものがある。

これが、一定以上底辺になると、途端にまわりから無くなってしまう。 より支援が必要な立場に落ちてしまった時に、 かえってまわりの個人からの支援が無くなってしまう。 費用対効果で見た時は、40歳とかのもう駄目な感じのおっさんよりは現在中学生とか高校生に対して働きかける方が良い。 そしてどちらも同じ一人の人間であるのなら、 費用対効果で判断するべきのような気もする。

だがあまり費用対効果で判断してしまうと、 費用対効果が悪いところまで行ってしまった瞬間に支援が無くなってしまう。 まわりを見ていると、現実にそういう傾向はある気がする。 まっとうな人のまわりにはまっとうな人が居て、より良い支援が得られる。 この支援があれば底辺たちももっとやりようがあるのになぁ、と思う。

現状は、全体としては合理的なのかもしれないが、 もうちょっと個人に訪れるまわりの扱いの変化は連続的な方がいいよなぁ、 という気もする。 現状は、見捨てられるかどうかのところに大きな不連続性があり、 見捨てる瞬間が自分でも良く分かる。 この突然ストンと無くなってしまうところは、もうちょっと徐々に無くなっていくようになっている方がいいよなぁ。 個人としても、じわじわと悪化していく方が「このままだとまずいな」と思える期間が長くなると思うし。