耳が喜ぶイタリア語で、初めて文章と言えるような長さのイタリア語を、辞書を引きながら読んでいる。 これには懐かしい感動がある。 そういえば読解は楽しいんだったな。 最近終えた会話の本がつまらなかった事が対照的だ。

外国語で、初めてちょっとした長さの文章を読解する時には、感動があると思う。 例えば英語だと速読英単語とか、大学受験の読解の参考書とか、とにかくその辺、 高校生の頃あたりに初めてその感動を味わう事になる。

文法や会話の勉強にはそうした楽しみが無い。 会話も文法も、あくまで練習であって本番じゃないからな気がする。 特に会話の練習がいまいち楽しくないのは、それがちゃちなお遊戯みたいに感じられてしまうからに思う。 会話はやはり実際に会話するのが一番楽しい。家での勉強はダメだ。 (初めて現地でしゃべって通じた時には感動があるが、それはまた別の話)

ひるがえって、読解は外国語を読んでいるという点では本番と同じ、というより一種の本番だ。 勉強の為の教材ではあっても、そこにはその言語で書かれた文章があり、その言語でしか読めない。 読解の教材の文章にはある種の中身がちゃんとあって、それらを通して学ぶ事は実際多い。 むしろ語学の勉強用の文章は、そこらのSNSで流れてくるどうでもいい釣り記事などよりも、良いものが多いくらいだ。 語学の読解教材は、その国の気質や文化などを、陰に陽に反映する。 それらを学ぶ事は、その国の事を学ぶ入口になっていると思う。 その言葉を学んだ人にしか出会う事が無い世界との、最初の遭遇だ。 実際かつて言葉を学んだ国、米国や中国やスペインや中南米を思っても、 各国での様々な体験とともに、読解の勉強の時に触れた文章達も結構な重みで心に浮かぶ。

リスニングも一種の本番で、リスニングにはリスニングの面白さがある。 だが、読解の方が一段レベルが低い状態で辞書の助けを借りて読めるようになるので、 最初にその言葉で知らない世界が開ける感動は、やはり読解で味わうのが普通と思う。

という事で初めてイタリア語の文章を読んだ。